今日は仕事で午後から奈良。
家の中はひんやりしているので、今日も判断を誤った。
小春日和なのに黒のセーターでちょっと汗ばむ。
夕方、夕日に向かって移動。
奈良盆地からみる夕日はいつでも美しい。
けわしく大阪と奈良を隔てている山肌が急にやさしく見える。
昔の人はもっとうっとりと、また、畏れも抱きながら、
山々のむこうに落ちてゆく夕日を見送ったことだろう。

行きの急行電車でのひとこま。以下四首。
雑音といふには耳に心地よく隣の翁は喋りつづける
駅ごとにその駅名の由来など連れの翁にたしかめてをり
石切を越え生駒越え奈良へ入るころに話題は神の御業(みわざ)に
ひとりびとり造作の違ふ不可思議を無邪気に語る翁、神か?
禰子
ちょっとおちゃめな老人二人だった。
とりわさは何故にとりわさびといはぬ行方不明の「び」を思ひ食む
「係り・掛り・懸り・繋り」が纏められ見出し語にあり、不信感増す。
なにゆゑのダブルクリック人類のクリック数を決めたのは誰
十年間ピアノを教へにきてくれた越野先生はクリスチャン
にほひたつにはのかたすみれんめんと金木犀は前世より降る
賛否も是非もなく闘ひの連続を生きるほかなき野中広務は
ぬる燗→珈琲 ヘンかもしれませぬけれど、わたしのフルコースともいひます
後付けの情念、なんかは置いといて 藤圭子の声を聴いてみよ
mixiのサンシャイン牧場
…アプリってなんだ、なんか時間ばっかりとられそうだぞ。
なんだかんだとサービス充実の裏になにかありそうなところもいやだし。
と新しいものになかなか食いつけないタイプな私。
そもそも本当に(しゃれになんないくらい)自分のための時間も体力もない最近、
アプリなんて!という気持ちは今もそのままなのだが、
今月の短歌人をみて、ちょっと目が釘付けになった。
サンシャイン牧場へゆき収穫のよろこびを吾(あ)は知りそめにけり 宇田川寛之
おおっ、宇田川さん、そうなんですか。
そうなのかー、収穫のよろこび。
そっかー、それはちょっと気になる。
でも、それよりも私は短歌のよろこびをここにまた見つけたような気がした。
これが定型に容れられたことばでなかったら、きっと立ち止まらなかっただろう。
定型の力(力技?)を感じる。
急に「サンシャイン牧場」という名前がきらきらしてきた。
あ、でもアプリはしませんから(笑)。
わたしを説得できるひと、いれば解説おねがいします(^0^)
助け舟あちらこちらに見えつつも助けられたくない夜がある
ひだまりといふおだやかな言葉さへ「溜まる=澱む」とカテゴライズす
奈良がすき奈良はきらひといふときにならはあたしが好きなんやろか
想定外にやはらかきアーモンドグリコを犬歯で潰すときひとりぼち
さ男鹿の入野のすすき初尾花塗り重ねゆくものの多くて
傘とうらんが辻にやさしく受けとめてもらひぬ 今を君と吾の今を
勺 禰子
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■8月号「
20代・30代会員競詠」評 (川野里子氏:かりん)より抜粋
雷鳴も生駒の腹も潜りぬけ君は私を抱きしめに来る 勺 禰子
まっすぐな歌である。このまっすぐ感を気持ちよく立ち上げているのが、しっかりとした技巧の力。「雷鳴も」に並列される「生駒の腹」が面白く、恋の歌にどっしりとした落ち着き感も与えている。近年の歌には少ない傾向の歌だが、地名は力をもつ。もっと使われていいし、そこから立ち上がる生命感も振りかえられてもいい。
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■三角点「20代・30代会員競詠を読んで」 (紺野裕子氏)より抜粋
風の強さは風の気持ちの強さゆゑ吾も立ちたるまま風に向かふ 勺 禰子
うねるようなしなやかな韻律が心地よい。風の強さゆえに作者もまた全身で風を受け立っている。風に対する強い意志であり、作者の決意である。まぶしいばかりの夏の相聞。結句の八音がややもたつく。
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読んでいただき、評までしていただくことは、替えがたいよろこびだ。
くらべて、自分の、なんと人の歌をちゃんと読めていないことか・・・。
読むこともまた大きなよろこびなのに、それも出来ないくらい疲れている。
そうか、本当に疲れているからか?
自分の歌がかわいいだけじゃないのか?
時間がないのはいいわけ。
こうやって、自分の歌を読み返す時間があるのだから。
今月はとうとうWEBの勉強会の歌会の歌評ができず。
いくら忙しいからって言い訳にもならない。
優先順位を完全に見失っている、と思う。
組み立てなおそうと思います。
締切りの順に急かされ片付ける、吾とふ締切りに目を瞑り
八十年、九十年と校正は続く 私が締切られても
あるべきやうあるべきやうわと唱へつつ真夜の繁華な街をあゆめり
禰子
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「栂尾明恵上人遺訓」より。
人は阿留辺幾夜宇和の七文字をたもつべきなり。
僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり。
乃至、帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。
このあるべき様をあざむくゆえに、一切悪しきなり。
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べき
というのは、「しなければならない」とは訳さない。
あるべき
というのは、自我を超えたところにあるものだから。
「〜ねばならない」というような束縛されたものではないはず。
しずかに大きな流れに添えたときに、あるべきようであるのだろう。
…かなり遠くて、ちょっと泣きたくなる。
…ちょっと違うかな。
かなり、は遠くない。ちょっと、見えてる。
あとちょっとのような気もするから、余計に遠い、のかな…。

とはいうものの、2年前の以下の記述から全然進歩していない。
《「べき」というのは、けして義務からくる言葉でなく、「そうあることが自然」という意味だと》
「そうあることが自然」
というのは、もしかすると生きている時点で諦めなければならないことなのかも。。
そういえば、去年から少し書かせていただいたものがあったので、忘れないうちにアップ。
(というか、最近題詠ブログ以外ご無沙汰なので、苦し紛れとも。)
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未来を生け捕る
勺 禰子
歌を詠まない(が、詩を書く)友人に、「作歌とは「きもち」を「ことば」に注ぎ込むイメージ。アイス珈琲に牛乳をどばーっと入れたときの、うんにゃりと混ざりあう感じ」と言われた。う…、ちょっと違う。私も同じようにアイス珈琲で例えねば…と、「作歌は「きもち」の中から「ことば」を掬いとるイメージ。アイス珈琲に牛乳を入れる映像を逆戻しにして、31個の製氷器にぴたっと入る牛乳だけを元に戻す、みたいな」。
混ざりあった結果、が詩や小説なら、掬いとった結果、が短歌だと思う。うんにゃりと混ざりあった気持ちの中から、核となることばを救い出す(あ、掬い出す)。なるほど詩が「気持ちをことばに注ぎ込む」ものなら、「ことばを気持ちの中から掬いとる」短歌は、その生成過程がまったく逆で、仲はいいが生き方のまったく違う彼女との違いを発見したような気がして、私はすこしにやりとした。
短歌には、記憶装置という一面があって、そのときの気持ちの揺れや、切りとった情景なんかを生け捕りにすることに長けている。どちらかといえば「過去」を生け捕ることが多い。過去を生け捕った歌が、千年経っても読み手に再生可能なのは、三十一文字の韻律が、記憶を程よく圧縮するのに適しているからだろう。――でも、この一年で、短歌は「未来」も生け捕ることを知った。そのときばかりは短歌は急に主体性を持ち、ことばが道しるべのように識閾下で人を誘導する。中古のかなた、そのようにことばが先行して未来や関係をつくっていったのが相聞であったのだ、と思うようになったのが、去年の梅雨の月曜の朝だったことをはっきりと覚えている。
未来を生け捕った歌が、詠み手(やそのまわりの人)の将来を誘導可能なのは、ゆらゆらと浮遊していた情感や情景の中からことばを掬いとって三十一文字の韻律という型に嵌めることで、情感や情景が鎮まり、ことばがそれ自体であゆみ始めるからだろう。
それを言霊、と呼ぶのかな、とふと思った。
まだ嗅がぬ遠野の森を踏み分けてゐる月曜日 道行きじみて 禰子
(初出 「短歌人」2008.11)
もし神といふ名の意図的集合体に狙はれたら、そりゃかなはんで
駅前にロンドンといふパン屋あるその駅にもうたぶん行かない