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「日本の民俗をきく」 全3回
画像をクリックしていただくと大きく開きます。
日本の民俗をきくカラー

イベントのご案内です。
柳田國男・折口信夫・宮本常一の朗読会を
奈良県大和郡山市の古民家(本当に使われていたものを移築)でします。
お近くの方、ご興味のある方、ぜひお出でください♪

奈良民俗文化研究所公開講座
「日本の民俗をきく」
2014年5月~9月 全3回
於:大和民俗公園内古民家(大和郡山市矢田町545)
各回とも 13時30分~15時 参加費無料


今から百年ほど前、
庶民のくらしの出来事やモノや言い伝えなどを
調べて書きとめようとして日本の民俗学は始まりました。
江戸時代に建てられた古民家の畳の上でくつろぎながら、
私たちに身近な日本の民俗学に大きな影響を与えた
3人の著作とその背景を、朗読でひもときます。

【第1回】5月3日(土祝)
『女の民俗誌』

  宮本常一 1907-1987 の作品から
  朗読:高橋 秀夫 (詩人)
  旧木村家 (吉野集落内 十津川の家 県指定文化財)

【第2回】7月20日(日)
「まれびと」と「おとづれ」

  折口信夫 1887-1953 の作品から
  朗読:勺 禰子(歌人)
  旧赤土家離れ座敷 (国中集落内 香芝の家・旧萩原家横)

【第3回】9月21日(日)
『後狩詞記』から『遠野物語』へ

  柳田國男 1987-1962 の作品から
  朗読:鹿谷 勲 (民俗研究者)
  旧岩本家 (宇陀東山集落内 室生の家 重要文化財)


□ 大和民俗公園
矢田丘陵の一郭に26.6ha・園内外周2.1kmの里山に整備された公園。
季節の花や野鳥が楽しめるだけでなく奈良県各地の典型的民家15棟
(国の重要文化財3棟と県指定文化財10棟を含む)が園内に点在する
全国でも非常に貴重なスポットです。奈良県立民俗博物館を併設。

□ 主催:奈良民俗文化研究所(連絡先は上記チラシ内に記載しています)
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【2014/03/27 23:58】 | なら民俗通信 & 記事 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
生駒あるくみるきく【10】 参道の新たなにぎわい
ながらくアップしていなかった「生駒あるくみるきく」。
やっとこ追いついて2013年10月掲載分です。

このような連載を書くなんて、
正直自分でも思ってもみませんでした。
偶然が偶然を呼んだここ数年、
それらをしずかに辿ってみれば、
何となく偶然とは言い切れないつながりを持っていて、
私に何をすればいいのか教えてくれているような気がします。
そして、たくさんのうれしいつながりをいただいています。

残念なできごともあったのも事実です。
生駒市広報課の女性から、
非常に身勝手な方法で情報を聞き出され、
まさしく「恩を仇で返される」ようなこともありました。
この件についてはいずれきちんとした形にしたいと思いますが
そのほか感じた官民の問題をあわせ(官を燗としか変換しない我がPC 苦笑)
下記の一首として記憶しておきます。

「協働」といふ通り魔になぶられて市民としても書き手としても 禰子

とまれ、来年は奈良大阪が飛躍的に短時間で結ばれて100年、
生駒駅ができて宝山寺への新参道ができて100年です。
新たなにぎわいのために活動されている方がたくさんおられます。
いろんな形の応援の仕方があると思います。
私も引き続きこの道の来し方行く末を、
自分の自然なポジションから見守っていきたいと思います。

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 生駒あるくみるきく【10】 参道の新たなにぎわい  勺 禰子
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新参道
万燈会でにぎわう宝山寺参道筋。
今年は生駒駅から灯りがつながった。(2013年9月23日)


■参道に気づく
「生駒あるくみるきく」を書きはじめたきっかけは、一昨年の初夏にたまたまみつけた小さな道標だった。少しさびれた商店街から伸びる坂道に点在する道標は、下部分がコンクリートに埋まっていたり、電柱の陰にかくれてゴミの集積所になってしまって、お世辞にも大切に扱われていると思えなかったが、ここが何か重要な道だったと思わせるに十分だった。道の入口にある「いらっしゃいませ参道筋」という街灯と方角から、宝山寺へ続く参道とその丁石だろうことは予測できたが、生駒駅改札前の大きな案内地図には「参道」の「さ」の字も見当たらない。地元の人に尋ねると、「昔は芸妓さんがいて旅館がたくさんありました。そこのマンションも向かいの家も昔は旅館やったんですよ」という予想以上の答えが返ってきた。片鱗を探すと駅の南側ロータリーの真ん中にごく控えめに佇む「宝山寺 大鳥居跡」という石碑をみつけた。隣接するケーブル駅の名前が鳥居も無いのに「鳥居前」である理由がそれでやっとわかった。(大変残念なことにその後「二丁」の丁石は折れ、撤去された)。

■参道を調べる
生駒に土地勘のなかった私は、早速知人から「生駒市誌」を借りて読んでみた。それでこの道が大正3年の大軌(現近鉄)開通時に新しく敷設された宝山寺への「新参道」であること、参詣者やお茶屋遊びの人で大層賑わい、一時期はそれが生駒の主要産業であったことなどを知った。昭和57年の駅前開発の際に生駒山の中腹にある宝山寺惣門前に移設されるまで、大鳥居は生駒駅を降りるとまず目に入った「生駒のシンボル」だったに違いない。駅前の大鳥居を潜ることで、来訪者は宝山寺へ至る別世界に入る。それが徐々に様変わりしたのは、風営法の改正や高度成長期など時代の変遷だけでなく、生駒自身が大阪の通勤圏としてベッドタウンになることを望んだ結果に思えてならない。大鳥居がなくなってしまい、駅から続く参道は当初の使命を終えてしまったのだと思う。

■参道をあるくみるきく
それはともかく、まだ華やかだった参道を知る人は存命のはずだと気づき、その年の秋から参道筋にくらす人たちを訪ねて歩いた。
ほとんどが突然の訪問だったにもかかわらず、いろんな話をしてくださった。連載の一回目から順に、仕事をしていると芸妓たちの三味線の音色が聞こえてきたという宮野さん、参道が出来て間もなく創業した酒屋の楠下さん、半月も続く盆踊りなど普段のくらしぶりを教えてくれた阪本さん、100年前の生駒トンネル事故の犠牲者を今も手厚く祀っている姜住職、戦前から旅館を切り盛りしてきた谷内さん、生駒大師堂を守ってきた山上さん、地域の人に愛されるお地蔵さまとそれを守り続ける山崎新町の人々、新道の子として道の盛衰を見てきた芳野さん、代々道普請に参加してきた仲之町の人々のほか、見ず知らずの私に貴重な話を聞かせてくださったたくさんの方々。
参道に関する記憶は決して忘れ去られたわけではなく、語る機会のないまま一人一人のなかに眠っていただけなのだった。お話を伺いながら、それぞれの方々の人生がこの参道を媒体に、時間を超えたつながりを持っているという感覚を覚えた。

■地元でにぎわう新たな参道
今年8月の生駒市広報の巻頭は「あの頃の賑わいを再び」と題した宝山寺参道の特集だった。歴史や新しい取り組みを意欲的に紹介していたが、「あの頃の賑わいを再び」とは、参詣者だけでなくお茶屋、置屋、芸妓に旦那衆といった「あの頃の生業」の復活と奨励を意味する。確かに生駒を発展させた重要な文化の一つだが、市の広報誌が発信する今後の展望としては軽率と言わざるを得ない。
一方、「宝山寺参道新たな賑わい活性化プロジェクト」等、参道の「新たな賑わい」への模索が活発だ。生駒聖天さんどう会や万燈会実行委員会が宝山寺の彼岸法要に合わせて行うイベントは年々広がりを見せ、ついに今年9月23日には生駒駅前から参道のすべてに灯りがともった。
市外からの観光客も重要で実際に人数も多かったと思うが、灯籠に絵を描き、道に並べ、一つひとつにろうそくをともした地元の人々の参加が、参道の新たな賑わいを作り出していた。自作の灯籠を探し心躍らせて一段一段階段を登った子どもたちが、時代の変遷を超えてここにある参道を新たに踏み固めている。こうした行事の中で道の来し方行く末を肌で感じることができれば、道にも人にも幸せなことだ。来年は生駒駅が出来て百年、新たな賑わいによる「観光生駒」は、地元の人たちの参道への愛着から再生を始めている。私も自分が出来る方法で、あるいてみてきいて、少しでもたくさんのこの道の記憶をつないでいきたいと思う。

(しゃく・ねこ 歌人、ささぶね編集工房)奈良新聞2013年10月4日掲載
【2013/10/15 21:41】 | なら民俗通信 & 記事 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
生駒あるくみるきく【9】 百年目の道普請
ひき続いてアップいたします。
2013年7月掲載分です。

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 生駒あるくみるきく【9】 百年目の道普請    勺 禰子
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仲之町 
昭和20~30年頃の仲之町。
左は参詣者の接待所、子どもたちはこの道でスキー遊びもした。(撿保照生さん提供)


■大正十二年の道普請
生駒駅から宝山寺へ伸びる参道のうち、仲之町の辺りには、今も所どころ大正時代の敷石や石段が残っている。冬でも勢いよく歩けば汗ばむ階段沿いには、赤い鳥居の鮮やかな熊鷹神社がある。門前町との境、大石段下の植え込みにはひっそりと「道路開通記念」の石碑があり、発起人10名、請負人1名の名前と「大正十二年六月竣成」の文字が、勢いのある書体で彫られている。
「道は大正3年に出来て、これは推測やけど、きちんと石段になったのはこの道普請をした大正12年とちがうかと思うんです」と言うのは、記念碑の発起人に名前を連ねる撿保(けんぽ)安治郎さんの孫の撿保照生さん(昭和9年生)。参道は「新道」と呼ばれ、駅から宝山寺まで一丁ごとに十三の丁石が建てられていた。山崎町から訪ねてくるおばさんは、今は紛失してしまった四丁の丁石付近のことを、「新道四丁目」と呼んでいたそうだ。幼稚園のころ仲之町へ越してきた徳田宗一さん(昭和20年生)は、近所のおばあさんから、お嫁入りしてきたとき新道は地道で、自動車が走っていたと聞いたことがある。
今から99年前の大正3年、上本町奈良間に大阪電気軌道が開通して生駒駅が出来た。信者らの寄進で駅から宝山寺まで開かれた新参詣道は、人の往来を糧に、まるで道自体が生命をはらむかのように、ぐんぐんと発展したのだろう。建ち並ぶ旅館や茶店の中には、日本最初の映画スター「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助(大正15年没)の別荘もあったという。道普請に至った経緯や、たずさわった人々の範囲の詳細は不明だが、参詣道として出発した道が住人の手によって拡張・補強され、立派な記念碑をつくるほどに、道はそれぞれにとってかけがえのないものになっていたに違いない。

■お梅ちゃん・スキー・神輿
「大阪で材木を扱っている人の別荘前に、宝山寺の接待所があってね、参詣の人が休めるように無料のお茶を用意してたんや。黒い床几がいっぱい置いてあって、ちょっと気の弱いお梅ちゃんという女中さんが番をしてたなぁ」と撿保さんが言うと「空家になってからは卓球して遊んだなあ」と徳田さん。
「昔はお茶屋遊びのことを『ちょっと新道行ってくるわ』と言うくらい、ここは花街としても発展してね。吉原の大通り仲之町が町名の由来とも聞くね。新道が賑わってたのは昭和25年くらいまでかなぁ。枚岡(現東大阪市)の伸線業者がお客さん連れてきたわけ。尺遊びと言うて百円札を一尺(約30センチ)積んで一晩で使こたくらい儲かってたらしいで」と教えてくれたのは俵口育ちの取桝(とります)正一さん(昭和15年生)。
「この小さな仲之町に昔は四軒の旅館がありました。隣の軽井沢町一帯は松茸山で、秋は山を借りてロープを張って、お客さんに松茸狩りをしてもらいました」というのは、生家が旅館をしていた山中幸男さん(昭和18年生)。道普請の碑には、生駒小学校の校長だった祖父・豊太郎さんの名前もある。
「うちの祖父は芸妓さんや女中さんの着物の洗い張りをしてたんですわ」というのは、唐崎勝さん(昭和14年生)。積もりそうな雪の日は、朝から竹を割り火であぶって先を曲げ、参道の石で節をこすってスキーをした。道が敷き固められカチカチになったので、大人たちにひどく怒られたが楽しい思い出だ。
 昭和22年頃には新憲法公布を祝って、博多の祇園山笠のような神輿を作ったという。復員した人たちが担ぎ、二日間練り歩いてまわった。

■百年目の道普請
道普請のときに参道に移されたらしい熊鷹神社は、平成15年に老朽化で銅版の屋根に葺き替えられた。ほぼ一世紀この町の春夏秋冬を見てきた桜と紅葉の並木も病気にかかっていた。石段の劣化もここにくらす人たちには問題だった。この秋から参道の改修工事が始まる。
「仲之町の総意として市と話し合いを重ね、今ある石もできるだけ再利用する改修になる予定です」と言うのは現自治会長の木村茂さん(昭和16年生)。昭和40年代にこの町の住人になった清原卓さん(昭和13年生)も改修のための調査の光景を記録している。木村会長は「今は仲之町のナカは仲良しの仲と言うてます。参道は仲之町だけじゃなくて生駒の顔です。お参りする人もハイカーも、ここを歩いて『生駒てええところやな』と思ってもらいたい」。
落ち着いた住宅地となった参道筋に、かつての花街としての賑わいはない。昔に戻せばいいわけでもない。その時々の思いで、道は大切に扱われてきた。それぞれの時代の、それぞれの記憶をつないでいくとき、蓄えられてきた思いがあふれるように、にわかに参道がハレの空気をまとい出すように思うのは気のせいだろうか。

(しゃく・ねこ 歌人、ささぶね編集工房)奈良新聞2013年7月5日掲載
【2013/10/15 20:55】 | なら民俗通信 & 記事 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
生駒あるくみるきく【8】 新道の子として
というわけで、続けてアップいたします。
2013年4月掲載分です。

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 生駒あるくみるきく【8】 新道の子として    勺 禰子
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yoshino.jpg 
たか子さん4歳、母のみつ子さんと(昭和3年12月1日)

■観光生駒
「お花見の頃になるとね、駅前広場にテントを張って、無料でコーヒーを振る舞ってましたんよ」
生まれて一度も生駒市本町を離れたことがないという、茶道師範の芳野たか子さん(87)は、昭和初期の賑やかだった生駒駅界隈の、今や少なくなってしまった生き証人の一人だ。戦前、もちろん高架になる前の生駒駅を降りたった参詣者やお茶屋遊びに来た人たちは、まず宝山寺へ続く新参道筋の入口にそびえ立つ大鳥居と三階建の旅館群を目にする。そこへ各料亭から当番で来た女性たちがコーヒーを振る舞って、日常とは違う空間が演出される。遮るもののない空を見上げると、間近に生駒山と、宝山寺の般若窟がせりだしている。「花見小路」と呼ばれた桜並木はもとより、参道には桜と紅葉が交互に植えられ、春には桜のトンネルを楽しめたという。
鶴橋から快速急行で15分、今や大阪のベッドタウンの顔しか見せない、しかも雑然とした感の否めない生駒駅からは想像もつかない光景だ。

■新道の子
たか子さんの父・熊蔵さんも茶道によく通じ、宮内省で勤めていたころは女官達に茶の手ほどきをしたという。商いをしていた船場の実家が傾いたのを機に関西に戻り、そのころ目を見張るような速さで発展していた新道で普茶料理の店を始めた。
たか子さんが小学生のころ、学校帰りによく塀の節穴から覗いて見とれていたダンスホール(昭和5年に出来た生駒舞踏場)には、百人ほどのダンサーがいた。また、今も三階建の建物が残る「二鶴」という旅館にはビリヤード場があり、和服に青い上っ張りを着た店の女性が声をあげてゲームをしていたという。
「小学校では『新道の子』って言われてね、『みんなはあんなええ服着んでも、立派に農業をしてたらいい』と先生が農家の子らに言わはって、今で言うたらいじめやわね。私は父が年いってからできた一人娘やったし、体が弱かったから大阪から牛乳取り寄せてもらって毎日飲んだり、大事に育てられたんよ。だから特別な場所の子のように言われても、守ってくれる人がいたら、いじめなんか平気よね」
そんなたか子さんも、奈良の女学校に通う頃にはこの町の出身ということがうとましく、生駒駅で降りるのが恥かしかったと言う。「制服も髪の毛も、わざとオシャレにせずにモッサリしてね。私のこと田舎から来てると思ってた子もいたわね」
夏になると、参道筋界隈では夕涼みの義太夫の会が催され、大人たちが代わる代わる浄瑠璃を語っていたという。近所の人たちが普段の生活の中で繰り広げる、農村とは確かに違う「新道の日常」の中で、親しみや憧れ、ときには反発やうとましさも感じながら、それでも懐かしい記憶として、たか子さんの思い出は形成されていったことだろう。

■新道の機微
新参道筋にどれくらいの置屋(おきや)があったのか聞いてみると、たか子さんの口から魔法のようにすらすらと店の名が出てきた。花街では、客が来ると置屋に所属する芸妓は検番を通じて旅館に派遣される。
「置屋は席(せき)と言いましてん。明治席、栄席、勝美席、丸太席、松田席、勝家席、千歳席、菊利席、高砂席、川岸席、山朝席、永楽席、延糸席…」。同じく旅館の名もすらすらと出てくる。「そうそう、生駒三美人いうのもありましたで。山富の娘さん、うろこの娘さん、楽々のおかみさんいうたらえらいべっぴんさんやってね」
後年、川柳界の最大勢力「番傘川柳」の流れを汲む「生駒番傘川柳会」の会長をされていたご主人・正夫さん(雅号村雨・故人)の影響で川柳をたしなむたか子さんの句のなかに、こんな句がある。

 裏の裏見抜く女将の堅い口

「そら、こういう町で育ったから普通よりちょっとオマセやったやろね」というたか子さんだからこそ、さらっと詠める句かもしれない。

■花街とみそぎ橋
「むかしここに禊橋(みそぎばし)っていう橋が架かってたの知ってはる? 行場がいっぱいあったから、そんな名前がついたのかしらん」
ケーブル線に沿って流れてきた川は、参道筋が急坂になる手前を横切っているが、今では道路下の暗渠となった水路に気付く人も少ないだろう。禊橋の名は、お父さんのお店のマッチラベルにも「生駒山禊橋普茶料理」として刷られていたそうだ。
夜毎三味線の音色の響く参道筋の奥にはたくさんの滝があり、小さな行場もたくさんあった。かつてこの町に降りたった、主に都会からやって来た人々は、それぞれ目的は違いこそすれ、生きるためのエネルギーを補給しにこの地に降り立ったのではないだろうか。と同時に、その時代の「新道の日常」の中にも、今では想像するしかない、生のエネルギーが充ち溢れていたに違いない。

(しゃく・ねこ 歌人、ささぶね編集工房)奈良新聞2013年4月5日掲載
【2013/10/15 20:41】 | なら民俗通信 & 記事 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
生駒あるくみるきく【7】 道に出てきたお地蔵さま
いやはや、またまたブログアップしてませんでした(^-^;
で、「生駒あるくみるきく」に至っては、
なんとまあ、9か月も放置しておりましたm(_ _)m
その後、おかげさまで第10回まで無事連載しましたので
これからまとめてアップいたします。
来年で100年を迎える宝山寺新参道については、
これからも歩いて見て聞いて、書きとどめていくつもりです。
この道に関わるどんな些細なことでも結構ですので、
ご存じのことありましたら、教えていただけましたら幸いです。

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大師堂改築中の仮住まいでも丁寧に祀られているお地蔵さま(2013年1月26日撮影)

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 生駒あるくみるきく【7】 道に出てきたお地蔵さま  勺 禰子
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■鈴の音
朝、生駒駅へ急ぐ通勤途上の人の中にも、立ち止まって鈴を鳴らす人が少なくない。買い物の行き帰りに、資源ごみを出しに来たついでに、散歩の途中に、朝晩の日課に、あるいは日曜ハイカーも、昼となく夕となく、そこを通りかかるたくさんの人々が手を合わせてゆくお地蔵さまがある。
宝山寺の参道筋沿いにある生駒市山崎新町の3体のお地蔵さまは、生駒大師堂(民俗通信213参照)の改築が始まってからは近くの民家の庭先で新しい大師堂の完成を待っている。仮住まいの祠(ほこら)には、以前と変わらず花が活けられ、まわりはきれいに掃き清められている。この道を使って生活をしている人たちの日々の祈りの場になっているお地蔵さまには、ちょっとした物語があった。

■川から参道筋へ
地元で生まれ育った年配の人たちによると、参道筋とケーブルの間を流れている川のほとりにぽつんとあったお地蔵さまは、50年ほど前に隣りの広場に宝徳寺(韓国寺院・民俗通信208参照)が移転してきたのをきっかけに、生駒大師堂の軒先に移されたそうだ。
もといた場所から引っ越しを余儀なくされたお地蔵さまだが、参道筋という新道に出てきたことで、お参りをする人が増えたという一面もあった。「川のお地蔵さま」は、「道のお地蔵さま」として信仰圏を拡げたと言える。
大師堂の方も、お地蔵さまに軒先を貸したことで、地元の婦人会や子ども会がお地蔵さまのお世話とあわせて大師堂の掃除をするようになり、以前よりにぎやかになった。こうしてお大師さまとお地蔵さまが仲良く並ぶ光景が参道筋になじんでいった。

■地蔵盆と数珠回し
地蔵盆は、地蔵菩薩の縁日である8月23、24日に行われる子どものための行事で、特に関西で盛んと言われる。山崎新町でも23日の朝早くから、町の人たちが大師堂前の道の両側に提灯を張り巡らせてゆく。赤・白・青に彩色された提灯には、「地蔵尊 山新講 たまゆら会」という文字と、それぞれ子どもたちの名前が書かれていて、あたりは華やいだ空間に一変する。
自治会長の巽恒雄さん(73)は、「地蔵盆の日には昔から〈数珠回し〉言うて、子どもらが大きな数珠を持って順番に回して、お年寄りが鉦を叩きますねん。今は子どもの数は10人ほどになってしもたけどなぁ」と教えてくれた。息子さんや娘さんの幼かった30年ほど前は、子どもの数はもっと多く、数珠回しは大師堂の中でしていた。大師堂が老朽化してきた近年は、向かいの工場の敷地を借りて執り行っている。「今年の夏は新しい大師堂の中で数珠回しできるかなぁ」と、巽さんも大師堂の完成を心待ちにしている。

■日々の祈り
お地蔵さまの小さな祠は、郊外の古い集落や古都の町中はもとより、オフィス街のビルの谷間や、商店街の中などあらゆるところに根強く残っていて、それらをよく見れば、赤いよだれ掛けは真新しく、手向けられた花はしおれていないことが多い。山崎新町のお地蔵さまも、いつも新しい花を活けられるだけのお賽銭はたまっているそうだ。
「地蔵」という言葉はサンスクリット語の〈命をはぐくむ大地〉が訳されたと言われ、地蔵菩薩は〈弱い立場の人々を救済するための永遠の修行者〉を意味する。そんな難しいことを考えなくても、くらしの中で自然に発生する祈りの対象として、お地蔵さまは各地で生き続けている。

■変化を見守る
年月が経てば個人の建物は建て替わり、町並み全体が姿を変えてゆく。それに対して道自体は、再開発や自然災害などがない限り大きく変わることはない。お地蔵さまも時に思わぬ引っ越しをするかもしれないが、基本的にはその地域の守り神として、土地の記憶を刻みながら人や町の変化を見つめ続ける。反対に変化した町にくらす私たちは、ずっと変わらないお地蔵さまに手を合わせることで、土地の記憶をいただいているのかも知れない。

(しゃく・ねこ 歌人、ささぶね編集工房)奈良新聞2013年2月1日掲載
【2013/10/15 20:16】 | なら民俗通信 & 記事 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
生駒あるくみるきく【6】 生駒大師堂を巡る人々
長らくアップしておりませんでした(^-^:
その2ですm(_ _)m
奈良新聞の毎月第1金曜日に掲載されている「なら民俗通信」
今週金曜日に【7】が掲載予定ですので、そちらの方は是非
お近くの主に近鉄主要駅売店(新聞自販機)←お近くに限りますが(^-^;
にてお買い求めくださいm(_ _)m

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 生駒あるくみるきく【6】 生駒大師堂を巡る人々  勺 禰子
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建替え前の生駒大師堂(2011年5月29日撮影)
建替え前の生駒大師堂(2011年5月29日撮影)

■榁木峠と参道筋
生駒駅の南にのびる宝山寺参道筋の急な坂道を5分程上って行くと、矢田丘陵を一望できる見晴らしのよい交差点に出る。参道筋沿いに階段をのぼれば聖天さんのいる宝山寺へ、南に進めば鬼取・暗峠(くらがりとうげ)へ、「ソーレン道」と呼ばれた尾根づたいの道を西に進めば壱分(いちぶ)の往馬大社に通じる分岐点だ。計6つに分かれた交差点には「榁木大師近」と書かれた石碑がつい先月まで残っていた。矢田丘陵と暗越奈良街道の交点にある榁木峠(むろのきとうげ)は、この交差点からは5キロほど離れた大和郡山市矢田町にあるが、この場所から峠を眺めた昔の旅人には、近く感じられたことだろう。

■生駒大師堂
この交差点を駅に少し戻ったところには、9月末まで写真のような生駒大師堂が建っていた。地元の年配の人に聞いても、「子どもの頃にはもうだいぶ年季はいっとったなあ」という建物は、かつては参道筋に並んだ旅館に、今ではマンションに囲まれ、老朽化のために波打った瓦屋根はまるで、そこだけ時間が止まってしまったかのような雰囲気を漂わせていた。それでもいつも花が手向けられ、町の老人会・婦人会・子ども会の人たちの手で、軒先にあるお地蔵さまとそろって、きれいに掃き清められていた。しかし雨漏りや耐震性、崩れた外壁の美観など、改修は難しく、建替えが決まった。安置されていたお大師さま・お不動さま・観音さまは運び出され、10月初めから取り壊しが始まった。

■生駒大師講
大師講とは、関西では弘法大師・空海を、オダイシサンとして信仰する講組織を指すことが多い。
生駒市山崎新町に住む山上明子さん(79)は、大阪の心斎橋から嫁いできた昭和31年に、この大師堂を拠点とする生駒大師講に入った。「昔はようけ居てはったんですよ。みんなで御詠歌あげて、鉦鳴らしてねえ」。明子さんが知っている中で一番多いときは30人ほどいたという講中は、大師堂のある山崎新町だけでなく、元町や本町など参道筋の、主に商売をしている人たちで構成されていたという。近年高齢化により休眠、事実上自然消滅してしまった生駒大師講だが、明子さんは責任者として、毎朝お大師さまにお経をあげてきた。
大師堂が建てられた時期は不明だが、「戦前よりもっと前やろうけど、大師堂の後ろは牛小屋やったときいたことあるわ」と教えてくれた。町の年配の方々に記憶を辿ってもらうと、床下には葬儀道具や櫓(やぐら)、正月飾りなど、町で使う道具もしまわれていたという。大師堂は町全体の公民館のような役割もはたしていたのかもしれない。

■新しい大師堂
取り壊される前の生駒大師堂の入口には、「北和八十八ヶ所第二十二番霊場/榁木山弘法大師賢聖院/分院生駒大師堂」の札が掛けられていた。冒頭の石碑に刻まれた榁木峠にある榁木大師のある寺院のことだ。
真新しい角材が着々と空に向かって立てられていく建築現場に、11月19日、上棟式を執り行いに来られた賢聖院(けんじょういん)の網干聖住職(63)によると、「生駒大師堂がうちに寄進されたのは昭和55年で、それより昔のことは先代が亡くなったこともあり詳しくはわかりません。けれど灯籠を寄進してくれたり、古くから熱心にお大師さまを信仰しておられたようです」。奥さんの敦子さんも、「講の方がまだたくさんいらした頃は、みんなでお参りに来られてにぎやかでしたよ」と振り返る。かつてのような講組織がなくなり、分院の大師堂を建替えるには大きな負担がかかるが、2人とも「生駒のお大師さまをなくすわけにはいかない」と考えている。新しい大師堂は新年早々にも完成の予定だ。

■参道筋に息づく大師信仰
明子さんは講がなくなってからも、生駒大師堂への日々のお参りと共に、定期的に四国八十八ヶ所巡りをしてお大師さまへの信仰を続けている。
「宝山寺さんの中にもお大師さんがいっぱい居てはりますやろ。若いころは22年間休みなしで毎日、早朝に通いましてん。参道筋の階段をたーっと上ってお参りして、下りてきてちょうど1時間。お大師さんいう人はあちこち回って、洞窟にも入りはってものすごい大修行をしてはるでしょ。せやからご利益も大きいんですわ」。明子さんが語る弘法大師への尊敬の念は、千年も前の人にではなく、見知った人に抱くような親近感を伴っているように思える。奈良県内はもとより、今もさまざまな形で全国に残るオダイシサンへの信仰心は、そのような親近感から生まれるのかもしれない。
百年前に出来たばかりの新しい道に集ってきた人々の中に、聖天さんや氏神である往馬大社への信仰だけでなく、弘法大師信仰がしっかりと根付いていたことは、くらしと信仰を思うとき、興味深い。

(しゃく・ねこ 歌人、ささぶね編集工房)奈良新聞2012年12月7日掲載
【2013/01/27 23:51】 | なら民俗通信 & 記事 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
生駒あるくみるきく【5】 門前町に生きる
長らくアップしておりませんでした(^-^:
奈良新聞の毎月第1金曜日に掲載されている「なら民俗通信」
今週金曜日に【7】が掲載予定です。

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 生駒あるくみるきく【5】 門前町に生きる  勺 禰子
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昭和30年頃の門前町のにぎわい(生駒市提供)
昭和30年頃の門前町のにぎわい(生駒市提供)

■夕焼け小焼け 
「大阪では長屋ぐらしでしたけど、お父さんは尺八、お母さんは大正琴やピアノができましてん。よく弟妹や近所の子ども15人ほど集めて、『夕焼け小焼け』や『靴が鳴る』をみんなと一緒に歌とてくれました」
生駒市門前町の料理旅館「天満屋」に、今はひとりで暮らす谷内ヨシ子さん(86)は、楽しかった幼い頃の記憶を丁寧にひもといてくれた。「菜畑出身のお父さんは、『ヨシ子、月が出てくるあの山の向こうがお父さんの里や』言うて、生駒山の方を懐かしそうに見ることが多かったです」。

■別れ 
ヨシ子さんは、11歳で母を、12歳で父を病で相次いで亡くした。母も幼い頃両親を亡くし、九州から大阪の裕福な親戚へもらわれて大切に育てられた。大きな農家で不自由なく育った父は、連帯保証人になって傾いた生家を離れ、腕のいい貝ボタン職人となって母と出会う。女学校まで出した養女の思いがけない結婚に父は反対し、勘当された2人は長屋でくらした。それでも快活だった母は、34歳のとき4人の子どもを残し、腎臓炎であっけなくこの世を去る。翌年、父も44歳で病にたおれた。すぐ下の弟は奉公に、妹は父の知人にもらわれた。幼い末弟と共に、子どものいない叔母夫婦にもらわれることになった長女のヨシ子さんは、昭和13年、父がいつも眺めていた生駒山を越えて門前町にやってきた。

■天満屋でのくらし 
門前町は宝山寺への参詣者や宴会客で賑わっていた。ケーブル線宝山寺駅前で草もち屋をしていた育ての父・谷内丑太郎さん(故人)は、2人を引き取った翌年の昭和14年4月、売りに出されていた「天満屋」を買って旅館業を始めた。父母を亡くし、弟妹のため奉公に行って学校が途中になっていたヨシ子さんを気遣って、養父母は裁縫学校にも入れてくれた。
ある日、宴会の配膳の手伝いをしていたヨシ子さんに「君か!元気にしてたんか!」と、抱きつかんばかりに手を握ってきた男性がいた。小学校のときの担任の先生だった。「最初はわからんでびっくりしたけどね、『私、いま幸せにくらしてます』て言うたら、先生は『よかったよかった』言うて、えらい泣いてはったよ」。

■映画館・海軍・終戦 
昭和16年末に太平洋戦争が始まるまで、華やかに栄えていた参道筋。生駒駅南に出来た映画館はいつも満員で、主に旅館の帳場を手伝っていたヨシ子さんもよく観に行った。「朝は時間あるし、芸妓さんも私もよう観に行きましてん。用事があると休憩中は『天満屋さん、帰ってください』てアナウンスが流れて、上映中はスクリーンの横に『早く帰ってください』と貼り紙されて。あれはかなんかったわぁ」と声を出して笑う。
「12月8日の開戦翌日から、カフェの音楽はみなピタッと止まるし電気は消さなあかんし。生駒は空襲はなかったけど、大阪が焼けたときは山の向こうから手紙やら紙屑やら、通帳まで燃えて降ってきて。あと、生駒山頂に海軍がきはりましてな。陸軍と違ごて海軍が山で訓練とは、こらいよいよアカンなぁて言い合いましたで。1年ほど休業して、戦後は昭和20年の末から商売し始めましたけど、そら忙しおましたで」。嫁入り道具にと揃えてもらった着物は米に変わり、酒やビールは大阪で商売している人に調達してもらった。

■笑って生きる 
高度成長期が過ぎると盛んだった宴会も次第に減り、かつて生駒の全生産額の3分の2を稼ぎ出したという生駒新地は、華やかさをなくしつつ、色町の様相を濃くしていった。「日曜日の心斎橋みたいやった」とみんなが口をそろえて言う賑わいはもうないが、現世利益やパワースポットとしての霊力を求めて、宝山寺やその周辺には今でもそれなりの人出がある。お茶屋を改造した地元野菜の料理や、エスニック料理の店ができるなど、新しい動きもある。
天満屋は2年前に廃業届を出し、70年以上の歴史に幕をおろした。3年前に不慮の事故で息子を亡くしたヨシ子さんは、「先のこと考えても生きていられへんから、笑って生きるだけですわ。まだまだがんばるよ」といい、店を切り盛りしているときから好きだった花の栽培や、なついている猫への餌やりを欠かさない。

■道の記憶 
鉄道開通と共に宝山寺新参道筋が出来て約一世紀、多くの人が商売のため、くらしのため、あるいは人生に翻弄されてこの道を往来した。大きな災害や都市計画さえなければ、道そのものの寿命は案外長い。年を重ねてきた道には、石段や丁石など目に見えるものだけでなく、まだ語られずにひっそりと抱き続けられた記憶も残されているだろう。そんな記憶をこれからもていねいに掬って刻み直したい、と思いながら晩夏の空を見上げると、この土地の来し方行く末を見守るかのように、般若窟がもこもこと、生駒の山肌からせり出していた。

(しゃく・ねこ 歌人、ささぶね編集工房)奈良新聞2012年9月7日掲載

【2013/01/27 23:36】 | なら民俗通信 & 記事 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
生駒あるくみるきく【4】 隧道をつくった人々
ノミの跡が残る巨大な石
ノミの跡が残る巨大な石

奈良新聞で毎月第1金曜日朝刊に掲載される「なら民俗通信」に、本日「生駒あるくみるきく【5】 門前町に生きる」が掲載される予定です。大阪では、近鉄難波駅・大阪上本町駅の売店でも売っています。奈良では近鉄主要駅の構内の売店か(目立たないところにある)自動販売機で。
お見かけの上、たまたまお財布の小銭が重くてうっちゃりたいと思っていたあなた(笑)、お手に取ってお読みいただけましたら幸いです。

民俗学や歴史学の先生や、行政、寺社、まちづくりなどの立場から、いろんな人が奈良について書かれてきたこの欄の第202回目から書かせていただいてちょうど5回目。少し身辺があわただしくなったこともあり、しばらく休憩をいただくかもしれませんが、引き続きあるいてみてきいて書いていく生活スタンスに変わりはありません。
というわけで、今回は7月6日(金)掲載された「隧道(トンネル)をつくった人々」をアップします。

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 生駒あるくみるきく【4】 隧道をつくった人々  勺 禰子
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■参道筋の韓国寺院
 「大阪城を作ったんは本当は大工さんや、他にも瓦職人やいろんな職人がいたやろうね。トンネルもたくさんの人が作りあげた。歴史書に残っていなくても、一人ひとりの人生に一つひとつの歴史がある。〈一般大衆〉なんてどこにもいないよ」と言うのは宝徳寺の二代目の住職、姜栄熹(カン・ヨンヒ)さん(65歳)。
 宝山寺への参道筋を400メートルほど上がり、ハングル文字でルビを振った「曹渓宗 宝徳寺入口」の看板から細い脇道を西に70メートルほど進むと、紺地に金で書かれた「生駒山 宝徳寺」の額のかかった小ぶりの山門が見えてくる。曹渓宗は禅宗の一つで、韓国では約8割の寺院を占める最大宗派だ。

■無縁仏慰霊碑
 宝徳寺には旧生駒トンネルにまつわる慰霊碑がある。現在の韓国、済州道から渡ってきた先代の住職が昭和26年に大阪市生野区で開山した同寺は、外国の宗教団体として一番早く宗教法人格を取得した後、昭和30年代半ばに谷田町(現在地・生駒市本町)に移転してきた。生駒を移転地に選んだ理由は手狭になったこと以外不明だが、旧生駒トンネルをつくる際の石切り場でもあったらしい現在地は、それまで地域の人々が先祖や死者の霊を供養するために踊る盆踊りの場でもあった。
 本堂を過ぎて右手奥へ70段ほどの階段を上りきると、視界が開けた広場の奥に、韓国人犠牲者無縁仏慰霊碑と極楽地蔵尊が建立されている。かつて同胞がこの地でトンネル工事に携わり、過酷な労働条件の中で病死、あるいは事故死したことを知った先代の住職が各方面に働きかけ、1977(昭和52)年に落成した。
慰霊碑に向かう階段の途中には、百名近い寄贈者の札が今も飾られており、姜住職は朝晩の祈祷を欠かさないのは勿論のこと、毎年社会見学にやってくる小学生たちに、旧生駒トンネルでの出来事を語り伝えている。

■トンネル工事
 生駒山は、古事記にも出てくる地元の豪族・長髄彦(ながすねひこ)にまつわる話や、役行者・空海など宗教者の修行の場として信仰の対象である一方、万葉集では恋情や望郷の気持ちを託す山として数多くの歌に詠まれ、その後も大阪と奈良を峠でつなぐ「越える道」として、密接に人々のくらしと関わってきた。その生駒山の腹を「潜(くぐ)る道」として、3388メートルという当時日本で二番目の長さのトンネルが計画された。工事の許可が下りたのは、1910(明治43)年12月。4ヵ月前の8月には日韓併合条約によって「韓国併合」が行われていた。
 翌年から始まった工事には、日本各地のみならず、朝鮮半島からも労働力として期待された人々が海を渡ってきた。慣れない土地での過酷な掘削作業は、故郷を離れて来た人には特に不安であっただろうし、朝鮮半島からやって来た人にとっては、時として受ける人種差別に、やる方ない気持ちがあったことだろう。

■落盤事故と二体の石像
 工事が始まって以来、大小多くの落盤事故が起こっていたが、1913(大正2)年1月26日に起きたトンネル東口付近での落盤は、生埋め約150人、死者約20人におよび、救助隊までも二次災害に遭う大惨事となった。宝徳寺の慰霊碑前に祀られている小さな石像二体は、この落盤事故の犠牲者を弔うために作られたものだという。
 二体ある理由については、トンネルの東口と西口にそれぞれ置かれていたとも、日本人と朝鮮人を分けて祀るためだとも伝えられる。この事故での朝鮮人死者数が判明していないので真相はわからないが、当時の状況を考えさせられる。

■ノミの跡は人の跡
 姜住職が「本堂の裏に石切り場らしいものが残っているよ」と教えてくれた。「ここが作業場だったとは聞いていたけど、掃除していたらノミの跡があったね。これだな、やはりここは石切り場で間違っていなかったんやな、という気持ちがあるね。慰霊碑もこの因縁でここに出来たと思うね。そうでないと、ここに慰霊碑が出来るわけがないもの」という。
 父の定均さん(故人)も昭和初期に慶尚南道から渡ってきた。自身は北九州市小倉で生まれ、比叡山でも修行をした。先代の住職とは血縁はなく直接の面識もない自分がこの場所に来たのは、何かご縁があってのこと、あと半年で百年の節目を迎える落盤事故のことを、これからも地道に伝えていきたいと思っている。
百年前まで巨大な屏風のように立ちはだかっていた生駒山に、近隣の人、日本各地の人、遠く海を渡ってきた朝鮮の人、数知れない人々の労苦の末、トンネルが完成した。
 新しい道をつくった人々に思いを馳せると、今までと全く違う景色が、そこここに見えてくる。

(しゃく・ねこ 歌人、ささぶね編集工房) 奈良新聞2012年7月6日掲載


韓国人犠牲者無縁仏慰霊碑
韓国人犠牲者無縁仏慰霊碑


【2012/09/07 01:30】 | なら民俗通信 & 記事 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
生駒あるくみるきく【3】 受け継がれるくらし
往馬大社祭礼の日 稚児姿の阪本徹雄さん 満5歳 (昭和19年10月11日)

奈良新聞で毎月第1金曜日朝刊に掲載される「なら民俗通信」
明日「生駒あるくみるきく【4】 隧道をつくった人々」が掲載されます(のはず…)。
大阪では、近鉄難波駅・大阪上本町駅の売店でも売っているそうです(Wikipedia談)。
奈良では近鉄主要駅の構内の売店か(目立たないところにある)自動販売機で。
お見かけの上、たまたま手に120円を握りしめていた方(笑)、
もしくはいろ○す・伊○衛門・ファン○グレープその他を買おうとしていた方は
その手をそっと奈良新聞へ・・・(^0^)

民俗学や歴史学の先生や、行政、寺社、まちづくりなどの立場から、
いろんな人が奈良について書かれてきたこの欄に、
勺禰子、202回目から登場しています。
そろそろ、このケッタイな名前も
「ああ、なんかペケペケが多くて読まれへん名前の人」
という浸透の仕方でもええのでしてくれているといいけんどw

というわけで、今回は5月4日(金)掲載された
「受け継がれるくらし」をアップします。

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 生駒あるくみるきく【3】 受け継がれるくらし  勺 禰子
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■宮座
「そら参道筋で生活してても、ここには生駒の宮座があるからな。
聖天さんは商売の神さんやし、他にもぎょーさん神さんおるけどな」。
「生駒の宮座」とは、勇壮な秋の火祭りで知られる往馬大社のこと。
「宮座」という古くから使われてきた言葉を、
当たり前のようにさらりと言ったのは、阪本徹雄さん(72)。
生駒駅の南から宝山寺へ続く参道筋の、
急坂を上った山崎新町で生まれ育ち、くらしている。
往馬大社の最寄駅である一分駅へは、
参道筋を降りた生駒駅から生駒線に乗って2駅。
鉄道だと遠く感じるが、町から南東に歩けば2キロ弱。
氏子であってもおかしい距離ではない。
参道筋には現世利益を求めてやってくる人たちが往来し、
町はそのために発展もしてきた。
けれどそのための旅館や店を営む、営まないにかかわらず、
この道に住む人たちには普段のくらしがある。
阪本さんの記憶からそれをたどってみたい。

■氏子
生駒は大阪と奈良を東西にほぼ直線で結ぶ幹線道路としての
暗峠(くらがりとうげ)を中心に栄えてきたが、
「生駒郡役所文書」によると、大正3年に大阪電気軌道(大軌)が
峠より3キロ程北の鉄道ルートを開通させてから、
駅周辺地区の営業者戸数は、3~5倍に急増した。
他村のそれが横ばいか減少の中、鉄道開通により
人やモノの流れが大きく変化したことがわかる。
また、『生駒市誌・資料編Ⅱ』には
「大正十年頃には、十三町の新参道の両側は家屋で埋まり、
街層村の新しい市街が形成されたこの新参道は、
生駒停留所に近い下の方は谷田、宝山寺に近い上の方は菜畑、
中間は山崎の領分であった。当時この新参道に沿った市街地を『新道』と呼び、
それぞれ谷田新道、山崎新道、菜畑新道と名づけられた」とある。
往馬大社は「生駒谷十七郷の氏神」として広く信仰されてきたということ、
また元村はそれぞれ神社にほど近い竜田川沿いにあることを考えると、
参道筋にくらす人たちは、往馬大社の氏子意識を古くから持っていたと言える。

■氏神祭礼記念
「かいらし写真残ってんねんで」と、
阪本さんが冠を被った愛らしい稚児姿の写真を、
少し照れながら見せてくれた。
裏には「阪本徹雄 五歳 昭和拾九年拾月拾壹日 氏神祭禮記念」と
万年筆で一字一字丁寧に書かれている。
「親父が書いてくれたんや。子どもには結構な距離やけど、
戦時中のことやし、歩いて行ったんやろなあ」。
地元の人が「山新」と愛着を込めて呼ぶこの町では、
今も秋の祭礼に子ども神輿を出す。
火祭りの日に往馬大社にもらいに行った火を、当屋の提灯にともし、
小ぶりだが鳳凰をいただいた立派な神輿二基で、町内や生駒駅前を練り歩く。
婦人会を中心に自治会で協力しておにぎりを握って配り、
子どもたちも楽しみにしている。
日常生活では接点の少なくなってしまった共同体の成員を、
今もささやかな祭りが結んでいる。

■ソーレン道
山崎新町の南端、西旭ヶ丘との境を東西に伸びる道を東に向かって歩くと、
行く手には矢田丘陵が間近く見え、背後には生駒山が迫っている。
南側の斜面は「吉野建て」で、道路に面した玄関が
2階や3階というつくりになっている家が並ぶ。
「小さいときはみんなソーレン道て呼んでな、なんや怖かったな」と阪本さん。
ソーレン道は葬送の行列が通る道のこと。阪本さんのお父さんは、
石切神社や生駒の町役場の建築にも携わった大工の棟梁だった。
町内で棺桶が必要になったときには、四角い座棺を作っていたという。

■半月続く盆踊り
参道筋と西にほぼ並行に走るケーブル線の間には、小さな川が流れている。
今では埋め立てられたが、ため池もたくさんあり、川ではカニを、
池ではどじょうを捕まえて泳いで遊んだという。
「今の健民グラウンドの向かい側あたりの川そばに広場があってな、
野球もようしたな。夏の盆踊りは1週間から半月ほど毎晩やってたんちゃうか。
今みたいに他に楽しみないし、櫓は年がら年中そのまま組んであったな。
カセットテープもないし、音頭取りの得意な近所の人が好きに唄って、
そらにぎやかに夜遅うまで踊っていたな」

■くらしと信仰の山
生駒山系には大阪側、奈良側双方の小さな滝ごとに
水垢離(みずごり)をとる行場があり、
今も小さな宗教施設が点在している。
生駒山は信仰の山としてクローズアップされることが多いが、
麓には人々の日常風景がちゃんとあった。
清新な空気や水にはぐくまれ、往馬大社の氏子としてまとまってくらしてきた
生駒の人たちの普段のくらしがそこにあってこそ、
民衆の間近にある信仰の山としての底力が芽生えたのではないだろうか。

(しゃく・ねこ 歌人、ささぶね編集工房) 奈良新聞2012年5月4日掲載
【2012/07/05 22:03】 | なら民俗通信 & 記事 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
「鳥居のなかの色町」 ―『編集会議』2012夏号掲載
編集会議2012夏

昨年半年、コピーライターや編集者・ライターの養成で
半世紀以上の実績を持つ老舗、株式会社宣伝会議の
「編集・ライター養成講座」というのに通っていました。

今までの仕事は、
あくまで結果的にみると、ですが
編んだり書いたりすることに関わってはいたものの、
創造的な編む・書くとはちょっと違ったということと、
とはいうものの、
これからも「編む・書く」ということに携わっていきたい。
そのためには一度体系的に学んでみたかった
というのが受講の理由でした。

5月から11月の初めまで、
ほぼ毎週土曜日の午後をみっちり4時間、
先生は総勢30名以上の各分野で活躍中の
編集者、ライター、写真家、新聞記者や
著作権関係の弁護士まで。
受講生どうしインタビューしたり、
結構な量のお持ち帰りの課題もあり、
講座の中でのワークショップもあり、
どうしてなかなか身に着くものがありました。
(そんだけの受講料でもありますが!)

その最終成果物としての卒業制作はインタビュー記事。
最優秀賞になったら『編集会議』という雑誌に
載せていただけるということもあり、
とにかくそれを目標にがんばろうと思い、
「えー、そんな大物無理やん!」という超ビッグな方に
「えー、そこ聞く??」というタブーな題材を聞く企画を立て、
先生にも即却下されるやろうと思いつつ出したところ、
「おもろいやん、案外受けてくれるかもやで。いこ!」
とまさかのGOサインw

さっそくアタックしたのですが、
ご高齢であることと超超超~ぅ多忙ということで、
秘書の方からご丁寧なお電話をいただきあえなく撃沈。
(実際、いつ寝てるのやろというくらいお忙しいお方…)

その時点で、締切まで2週間。
いやー、どうすんべ、わたし。

ということで一から始まった取材企画。

というなかで出てきた

鳥居のなかの色町 ―生駒 参道筋の100年―

で、ラッキーにもめでたくグランプリをいただき、
5月11日発売の『編集会議』2012夏号に掲載されました。
(勺禰子ではなく、本名で出てます)

紀伊國屋本町店では「本日発売!」と
どどーんと20冊くらい平積みされておりましたが、
実家の母は「どこ探してもなかったでぇ」とwww

はい、大きな書店にはあると思いますが、
大きくても郊外のお店にはないかも知れないですが、
お見かけの際は是非お手に取ってみてください。

特集自体も面白いです!
こちらから購入もできますよん。

ということで、若干(え、若干?)宣伝も入りつつ、
お知らせまで申し上げます。
【2012/05/12 10:11】 | なら民俗通信 & 記事 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
生駒あるくみるきく【2】 大看板が見守る酒屋の九十年
大正11年楠下酒店

奈良新聞で毎月第1金曜日朝刊に掲載される「なら民俗通信」
本日「生駒あるくみるきく【3】 受け継がれるくらし」が掲載されています。
大阪では、近鉄難波駅・大阪上本町駅の売店でも売っているそうです(Wikipedia談)。
奈良では近鉄主要駅の構内の売店か(目立たないところにある)自動販売機で。
お見かけの上、たまたま手に120円を握りしめていた方(笑)、
もしくは缶コーヒーその他を買おうとしていた方は
その手をそっと奈良新聞へ・・・(^0^)

「なら民俗通信」は連載回数200回以上の長寿コーナー。
民俗学や歴史学の先生や、行政、寺社、まちづくりなどの立場から、
いろんな人が奈良について書かれてきたこの欄に、
勺禰子、202回目から登場しています。
誰やねん!と言われていそうですが、
シャクネコというケッタイな筆名も
慣れてくると案外しっくりくるもの(たぶん)。

というわけで、今回は3月2日(金)掲載された
「大看板が見守る酒屋の九十年」をアップします。

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 生駒あるくみるきく【2】 大看板が見守る酒屋の九十年  勺 禰子
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■一枚の写真
近鉄生駒駅から、宝山寺へ上る参道筋を150メートルほど進むと、
どっしりとした瓦屋根の楠下商店が見えてくる。
硝子戸を開けて中に入ると、はめ込み細工のつやつやした彩色が鮮やかな、
年代物の大きな看板がずらりと目に入る。
欅(けやき)の一枚板で作られたそれらの看板の傍には、
セピア色の一枚の写真が掛けられていて、
若々しい初代店主の楠下俊男さん(故人)が、
家族や奉公人のほか、酒樽や大きな木箱に囲まれてこちらを見つめている。
俊男さんの次女で二代目としてこの店を支えてきた睦子さん(86)が生まれる3年前、
大正11年の写真だ。
■一升瓶も行き交った暗峠
 奈良市内で造酒屋の8人兄弟として育った俊男さんは、
大正6年に18歳で生駒の参道筋に菓子屋を開いた。
まわりが花街として急速に発展する中、3年後には酒店を開業。原酒を仕入れ、
「行進」「安楽」という銘柄の日本酒の販売を始めた。
番頭はじめ10人ほどの奉公人や女中を雇い、生駒山を越えた大阪側へも配達した。
「一升瓶が16本入った木箱を荷車に積んで、石切の酒屋さんまで
暗(くらがり)峠を3人がかりで越えてました。
1人が荷車を引いて2人で支えて、昔の人は力持ちやったねえ」
と睦子さんは振り返る。
ここにも、暗峠を活発に行き交う人とモノの流れを垣間見る。
 どこにも負けない気概で誂えられた看板は、
「店の顔」として誇らしげに参道筋を見つめている。
■たくあんとドレスとミシン
 俊男さんは、各々が朝食時に小皿にとった醤油は、
夕食時も大切に使って無駄にすることのないよう倹約を躾ける一方、
自ら樽いっぱいにたくあんを漬けて、皆に食べさせてくれた。
「もういっぺん食べてみたいわ。ずらっと干したあと、
糠にはズクシの柿を混ぜてね、ほんまに美味しかった。
お醤油はちょっといややったけどね。昭和11年に今の店に建て替えたとき、
父はまだ37歳。偉かったなあと今ごろ思てます」。
米や炭を扱う店舗を別に構え、順調に商売を広げていった楠下商店だが、
戦中戦後にかけてぜいたく品だった酒類、特にウイスキーはなかなか売れなかった。
あるときウイスキーを探して西洋人がやってきた。
俊男さんは蔵に眠っていたトリスやオーシャンを出してきて、
娘たちのためにビロードのドレスと交換してもらったという。
手に入れにくいものを交換する、交易の原風景を彷彿させる。
父は娘たちにミシンも買ってくれた。
「雑誌を見ていろんな服を作りました。私ちょっとオシャレ好きでね。
人気のあった中原淳一の絵を見つけては写して、
郡山女学校の先生のヒールにあこがれてスケッチしたりね。
男物のオーバーを勝手に女物のコートに作り直したときは、さすがに怒られたけど」
と睦子さんはいたずらっぽく笑う。
今は三代目の息子さんと四代目のお孫さんに店をゆだね、
俳画教室を開いている軽やかな筆づかいは、
慈しまれて育った女学校時代に培われたものだろう。
■心斎橋のようなにぎわい
宝山寺へ詣でる人の多さを、睦子さんは
「心斎橋よりえらい人でしたわ」と思いだす。
「お正月は向かいのお店に辿りつくのもやっとでしてん。
夜中から三箇日の間ずっと、赤いタスキにハチマキ巻いて、
お参りの人にお酒を振舞いますやろ、そしたら帰りには買いにきてくれますねん」。
かつては店内で枡酒の立ち飲みもしていた。
「芸妓さんの鼻緒の修理してる常連さんが、
夕方になったら向かいのお豆腐屋さんで出来立ての厚揚げを買うて、
手のひらに乗せたまま“熱い熱い”言うて走ってきはってね。
そのアツアツにうちの店でお醤油かけたげますねん。
仕事のあとのお酒は、そら美味しかったやろね」。
「持ち込み禁止」なんていわなかった時代。
「店」は、品物を介して人が集い、顔を見せあう場所だった。
■看板から伝わる「店」の意気込み
「あの改革があってから、あちこちにパーっと酒屋ができましたやろ。
あれからですねん」と睦子さんは少し悔しそうに言う。
流通革命の大きなうねりの中で、
小売りという「顔」の見える商売は追い詰められている。
参道筋にはもう、心斎橋のようなにぎわいはない。
心斎橋でさえ「街の顔」といえる店はめっきり減った。
「店(見世)」には、場所を定め、品物を見せるという意味がある。
今は店内に大切に飾られている楠下商店の大看板が、
21世紀の商いをどんな思いで見ているのかはわからない。
けれど看板を見上げる私たちには、
ここに店を構えた創業者の意気込みが、今も確かに伝わってくる。

(しゃく・ねこ 歌人、ささぶね編集工房) 奈良新聞2012年3月2日掲載
【2012/05/04 11:27】 | なら民俗通信 & 記事 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
生駒あるくみるきく【1】 目立て屋さんの半世紀
お正月明けから、奈良新聞で毎月第1金曜日朝刊に掲載される
「なら民俗通信」で、「生駒あるくみるきく」を書かせてもらうことになりました。
「なら民俗通信」は連載回数200回以上の長寿コーナー。
民俗学や歴史学の先生や、行政、寺社、まちづくりなどの立場から、
いろんな人が奈良について書かれてきたこの欄に、
勺禰子、202回目からの登場です。
こういうの、なんて言うのでしょ(^-^;
歌詠む人ちうのは初めてかな、たぶん。

明日は第2回目が掲載されます。
奈良新聞は奈良県内の近鉄の主要駅で販売されているほか、
(ただし、はしっこの自販機にひっそり置かれている場合アリ、要注意!)
大阪では、近鉄難波駅・上本町駅の売店でも売っているそうです(Wikipedia談)。

売店で缶コーヒーを買うまえに奈良新聞を見つけてしまったあなた、
握りしめたその120円を、思い切って奈良新聞に使ってみませう(笑)。
そう、缶コーヒーと同じ値段です(尾崎豊の時代とは違うのさ)。

というわけで、今回は1月6日(金)掲載された
「目立て屋さんの半世紀」をアップします。
今後2か月に1度のペースで連載です(たぶん 汗)。
ご愛読のほど、よろしくお願いします!

民俗通信202 宮野刃物店 宮野さん

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   生駒あるくみるきく【1】 目立て屋さんの半世紀  勺 禰子
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■一本の道
近鉄生駒駅を出ると、雑居ビルのすぐ向こうに、
山肌の感触も間近な生駒山を眺めることができる。
万葉集にも多く詠まれたいにしえの山は、
東京スカイツリーより8メートル高い標高642メートル。
屏風を立てたように見える大阪側からの姿や、
東生駒辺りから見える雄大な姿とも違った、
力強さと親しみの混じった景色だ。
その麓には「参道筋」と呼ばれる一本の道がある。
この道が整備され出したのは今から98年前の大正3年。
大阪電気軌道(現近畿日本鉄道)が生駒山にトンネルを貫通させて
大阪上本町と奈良を結び、生駒駅が設置された年だ。
大阪方面から聖天信仰で有名な宝山寺へ押し寄せる人たちの参詣道として、
1.5キロメートルの坂道はあっという間に発展を遂げることになる。
生駒駅前から生駒山中腹にある宝山寺へと続いている
参道筋を中心にあるきながら、
人のくらしと土地のつながりを、みたり、きいたりしていきたい。

■暗峠と大工さん
参道筋を入ってすぐの本町で刃物店を営む宮野勇さん(72)が、
今ではすっかり珍しくなった鋸目立て(のこぎりめたて)や
刃物研ぎの店をこの場所に構えたのは、50年前の昭和37年。
播州三木の両刃鋸の鍛冶師の家に生まれた宮野さんが、
誰一人知る人もいなかった奈良の地にやってきたのは、
暗峠(くらがりとうげ)と大工さんのご縁による。
瓢箪山の商店街で同じく刃物店を営んでいた義兄から、
「大和の大工さんはみんな暗峠を越えて瓢箪山まで目立てに来る。
誰か生駒に店を出してくれる人はおらんか、としょっちゅう頼まれる」
と言われ、修行先の広島から生駒へ来ることにした。
当時南生駒あたりから瓢箪山方面へ行くには、峠が近道だったという。
最初のトンネルが開通して半世紀を経てもなお、
峠道が生活路として生き続けていたことがわかって興味深い。

■生駒の目立て屋さん
鋸のギザギザの目(アサリ)は交互に外側に反っているが、
使っているうちにだんだんすぼまって切れが悪くなる。
この目を互い違いに開けなおし(アサリの目あけ)、
全体の歪み(ヒズミ)を取り、ヤスリで切れ味よく仕上げることを目立てという。
アサリの目あけやヒズミを取る作業は、50年前に三木から提げてきた
金床(かなとこ)という鉄の塊の上で行う。
各作業にあわせて使い分ける鎚の、カンカンカンと澄んだ小気味よい音が響く。
その後「鋸挟み」で刃を固定し、開け直したアサリをウラ・オモテ一つ飛ばしに
素早くヤスリで仕上げる。
宮野さんは年代物の金床を大切に使いながら、
「三木から大阪環状線に乗り換えるとき、金床が重いんで
階段を上り下りするのが大変やった」と教えてくれた。
かつては大工も多く、特に冬はたくさん木を伐るので、
板の間にうずたかく積まれた鋸を前にあぐらで座り、
朝からひたすら目立てをした。
「おん祭りに行ってくるから、その間に仕上げといて」と言って
鋸を預けて行く人もいた。昔はどこへ行っても、名前ではなく、
「生駒の目立て屋さん」と呼びかけられたという。
大工が減ったことや、鋸がいよいよ使い捨てられるようになってからは、
家庭用の包丁研ぎの仕事が多い。
近頃では包丁を研いでくれる店も珍しくなった。
「インターネットで調べてくる人もおるんや…」
と、宮野さんが言いかけたとき、店の扉が開いた。
「すみません、包丁研いでもらえますか?」。
日々変わるのが道の本質なら、ここにつながる道は
インターネット上にも伸び始めているのだろう。

■語りのちから
「昔は昼間に、向かいの置屋さんから三味線の稽古の音が聴こえてきて
風情ありましたな。ここは花見小路言うて駅からずーっと桜の木が植わって、
日本髪結うた芸妓さんが歩いて、そら綺麗やった」
この参道筋には、花街というもう一つの顔があった。
今では住宅が立ち並ぶこの道に、高度成長期頃まではたくさんの
置屋、料理屋、検番などが、駅前から宝山寺まで軒を連ねていた。
カンカンカンという宮野さんの目立ての澄んだ音を聞いているうちに、
三味線の音と目立ての音が両脇から聞こえてくる昼下がりの花見小路が、
自分の記憶のどこかにしまわれていた光景のような錯覚に陥った。
直接語ってもらうということは、
どんなに正確な記録よりも、
どんなに立派な映像よりも、
人から人へ記憶を伝える良質の再生装置のように思えるから不思議だ。

(しゃく・ねこ 歌人、ささぶね編集工房) 奈良新聞2012年1月6日掲載
【2012/03/01 23:15】 | なら民俗通信 & 記事 | トラックバック(0) | コメント(3) | page top↑
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