2008.06.22
紫陽花
『目をとぢたのちに鮮やかさを増してあぢさゐは真夜かたりはじめる』 禰子

育った家の濡れ縁のすぐ目の前に、額紫陽花が咲いていて、
そのすぐ後ろの桐の木の葉がぐんぐん大きくなりだして、
雨の降る日は土の匂いをかぎながら、
額紫陽花の絵をかいたような記憶がある。
「ぬれえん」が「濡れ縁」だと知ったのはたぶん小学生も高学年になってからで、
「ぬれーん」と耳で覚えた低学年の私は、
数年間「ヌレーン」という外国語だと思い込んで、
勝手に女性の名前のような気がして、その語の語源に想像を巡らした。
今までふつうの紫陽花を、
こんなにきれいだと思ったことはなかった。
じっくり見てみると、その葉のかたち、花びらのかたち、
こんなに一つ一つ違う花も珍しいのではないだろうか。
同じ茎を持つ紫陽花ですら、
花びらの数がちがったり、大きさも色も違う。
「一般に花と言われている部分は装飾花で、本来の花は中心部で小さくめだたない。花びらに見えるものは萼(がく)」なのだそうだ。(Wikipedia)


矢田寺 奈良県大和郡山市

育った家の濡れ縁のすぐ目の前に、額紫陽花が咲いていて、
そのすぐ後ろの桐の木の葉がぐんぐん大きくなりだして、
雨の降る日は土の匂いをかぎながら、
額紫陽花の絵をかいたような記憶がある。
「ぬれえん」が「濡れ縁」だと知ったのはたぶん小学生も高学年になってからで、
「ぬれーん」と耳で覚えた低学年の私は、
数年間「ヌレーン」という外国語だと思い込んで、
勝手に女性の名前のような気がして、その語の語源に想像を巡らした。
今までふつうの紫陽花を、
こんなにきれいだと思ったことはなかった。
じっくり見てみると、その葉のかたち、花びらのかたち、
こんなに一つ一つ違う花も珍しいのではないだろうか。
同じ茎を持つ紫陽花ですら、
花びらの数がちがったり、大きさも色も違う。
「一般に花と言われている部分は装飾花で、本来の花は中心部で小さくめだたない。花びらに見えるものは萼(がく)」なのだそうだ。(Wikipedia)


矢田寺 奈良県大和郡山市
2007.12.01
道行き
『吉野川のぼりゆくとき見たはずのない道行きが残す陰翳』 禰子
国道169号線は、いまや相当に走りやすい道となって、若葉マークでも、枯葉マークでも、恐怖感なく10トントラックとすれ違えるような幅員が保たれている。
大台ケ原にはじめていったとき、まだ「ここで対向車が来たらどうしよう」
というような道が各所に残っていたが、今はそれももうない。
高低差のさほどない快適な道を、どの車もけっこうなスピードを無意識に出して駆け抜けてゆく。
吉野、その奥の熊野。
『日本残酷物語』の「忘れられた土地」に描かれたような
昏く閉じられた空間はもうないようにも見える。
それでも、一つ道を分け入れば、苔むした廃車やくずおれた廃屋を見つけることはたやすい。
道は広げられてしまっても、
少し場所を換えられてしまっても、
その道を通ってきたさまざまな時代のさまざまな人たちの
「そこを眺めた」という記憶だけがさまよって、
ふと、息苦しくなるように思うときがある。
単なる錯覚というにはその気持ちは重く私にのしかかって、
何か知っていたことがあるのかもしれない、と思う。

国道169号線は、いまや相当に走りやすい道となって、若葉マークでも、枯葉マークでも、恐怖感なく10トントラックとすれ違えるような幅員が保たれている。
大台ケ原にはじめていったとき、まだ「ここで対向車が来たらどうしよう」
というような道が各所に残っていたが、今はそれももうない。
高低差のさほどない快適な道を、どの車もけっこうなスピードを無意識に出して駆け抜けてゆく。
吉野、その奥の熊野。
『日本残酷物語』の「忘れられた土地」に描かれたような
昏く閉じられた空間はもうないようにも見える。
それでも、一つ道を分け入れば、苔むした廃車やくずおれた廃屋を見つけることはたやすい。
道は広げられてしまっても、
少し場所を換えられてしまっても、
その道を通ってきたさまざまな時代のさまざまな人たちの
「そこを眺めた」という記憶だけがさまよって、
ふと、息苦しくなるように思うときがある。
単なる錯覚というにはその気持ちは重く私にのしかかって、
何か知っていたことがあるのかもしれない、と思う。

2007.08.15
吉野山 その1
『奥駆けのみちあをあをとうねりだし小角(おづぬ)に出遭ふこともありなむ』 禰子
今年はまとまった休みが取れなかったので旅行はあきらめていたのが、
オットが急に思い立って(というか、誕生日失念の償いに)近場で一泊、
近場→渋滞ナシ→お盆でも安いところ・・・と思考回路が巡って「奈良 民宿」でGoogle。
吉野山の民宿へ前日の21時半に電話(うちはいつもこんなだ)。
運良く一部屋空いていた。

なんと、借景は如意輪寺。
寝転んだまま山の端が見える。
吉野山から思わぬ贈り物をいただいたような気がして、
ちょっと、じーんとする。
吉野山なんて近いところに泊まることがあるとは思ってもみなかった。
吉野はいつも旅の入り口。
戻ってくると、「着いた」とさえ思うところ。
こういう近いところを昼過ぎに家を出発して、ぷらぷらと歩くのも悪くない。
夕方の日差しを浴びながら、蔵王堂まで散歩に行く。
夕方の勤行に参加できるらしいことを宿の女主人に聞いたからだ。
途中で陀羅尼助や吉野葛や法螺貝を覗きつつ。

勝手神社はなぜか立ち入り禁止になっていた。
せっかく目の前に泊まったのだから、
少しゆっくりと真ん中に立ってみて、静御前に思いを馳せてみたかったのだけど。
帰ってきて少し調べてみると、不審火にあったらしい。
でも、それも随分前のことのようで(平成十三年)、
その後も境内は入れたようだし、
今回の看板の新しさと合致するのかどうかわからなかった。
「境内危険」ってどういうことだろう。

今年はまとまった休みが取れなかったので旅行はあきらめていたのが、
オットが急に思い立って(というか、誕生日失念の償いに)近場で一泊、
近場→渋滞ナシ→お盆でも安いところ・・・と思考回路が巡って「奈良 民宿」でGoogle。
吉野山の民宿へ前日の21時半に電話(うちはいつもこんなだ)。
運良く一部屋空いていた。

なんと、借景は如意輪寺。
寝転んだまま山の端が見える。
吉野山から思わぬ贈り物をいただいたような気がして、
ちょっと、じーんとする。
吉野山なんて近いところに泊まることがあるとは思ってもみなかった。
吉野はいつも旅の入り口。
戻ってくると、「着いた」とさえ思うところ。
こういう近いところを昼過ぎに家を出発して、ぷらぷらと歩くのも悪くない。
夕方の日差しを浴びながら、蔵王堂まで散歩に行く。
夕方の勤行に参加できるらしいことを宿の女主人に聞いたからだ。
途中で陀羅尼助や吉野葛や法螺貝を覗きつつ。

勝手神社はなぜか立ち入り禁止になっていた。
せっかく目の前に泊まったのだから、
少しゆっくりと真ん中に立ってみて、静御前に思いを馳せてみたかったのだけど。
帰ってきて少し調べてみると、不審火にあったらしい。
でも、それも随分前のことのようで(平成十三年)、
その後も境内は入れたようだし、
今回の看板の新しさと合致するのかどうかわからなかった。
「境内危険」ってどういうことだろう。

2007.06.27
きば石
『“へき地根性”暮しにくいという人が教えてくれた。「“きば石”は避けろ!」』 禰子
十津川から護摩壇山へ抜ける道の途中に、昨年廃校になった小学校があった。
娘がひとしきりシーソーやぶらんこで遊んだあと、昔は小学校の文房具を扱っていたであろう商店へ入る。
店主は人が訪ねてくるのが珍しかったのか、「なんか飲んでいき」、とアツアツのコーヒーを入れてくれた(秋、半袖でも汗が落ちてくる日、3歳の娘にもアツアツのホットをいれてくれた愛すべきおっちゃん!)。「店の前があったかいから、そこの椅子出して座り」と来た!
文化財である某家の乗っ取り事件や、河原に分譲中のリゾート施設の顛末や、この集落での出来事をいろいろと話してくれる。ご自身は一人東京の大学に行ってもどってきたが、この空間がなつかしさと共に息苦しい、とのこと。どこまでが本当でどこまでが作り話なのか、その境界はすでになく、店主の話は延々と続いていた。
この道を進めば、龍神スカイラインへつながるのか、尋ねる。
ほんまに行くんか?と何度も言われながら、またも話はその林道を作ったときにどれだけ工夫が来て店が賑わったか、工夫たちのところへ物資を運ぶために行き来したときに、「きば石」にタイヤを何度パンクさせられたことか、アスファルトなんぞされたら冬凍って通られへん、という話に移っていった昼下がり。
空気はからからして、空は真っ青だった。

きば石みちは十津川 その一
十津川から護摩壇山へ抜ける道の途中に、昨年廃校になった小学校があった。
娘がひとしきりシーソーやぶらんこで遊んだあと、昔は小学校の文房具を扱っていたであろう商店へ入る。
店主は人が訪ねてくるのが珍しかったのか、「なんか飲んでいき」、とアツアツのコーヒーを入れてくれた(秋、半袖でも汗が落ちてくる日、3歳の娘にもアツアツのホットをいれてくれた愛すべきおっちゃん!)。「店の前があったかいから、そこの椅子出して座り」と来た!
文化財である某家の乗っ取り事件や、河原に分譲中のリゾート施設の顛末や、この集落での出来事をいろいろと話してくれる。ご自身は一人東京の大学に行ってもどってきたが、この空間がなつかしさと共に息苦しい、とのこと。どこまでが本当でどこまでが作り話なのか、その境界はすでになく、店主の話は延々と続いていた。
この道を進めば、龍神スカイラインへつながるのか、尋ねる。
ほんまに行くんか?と何度も言われながら、またも話はその林道を作ったときにどれだけ工夫が来て店が賑わったか、工夫たちのところへ物資を運ぶために行き来したときに、「きば石」にタイヤを何度パンクさせられたことか、アスファルトなんぞされたら冬凍って通られへん、という話に移っていった昼下がり。
空気はからからして、空は真っ青だった。

きば石みちは十津川 その一
2007.06.24
上湯川
『山原の茅原(ちふ)に しをるゝ昼顔の花。見過しがたく 我ゆきつかる』 釈迢空
ちょうど去年の今頃行ったときは、十津川から竜神へぬける県道・竜神十津川線の民宿に泊まって、その両脇に入り込んでいる集落ひとつひとつに分け入りながら寺垣内というバスの終点から少し西の古谷川というところまで行った。
県道は川に沿って、谷に近く、薄暗いところが多いのだが、
集落、とよべるものは、その奥の比較的広々とした空間や山を登りきったところに切り開いた明るい場所にある。



民宿で食べたきのこがあまりに美味しかったので、聞いてみると「上湯川きのこ生産組合」でつくっているとのこと。道の途中で見つけたので寄ってみると、こころよく見学させてくれた。

山の上からみると、となりの山は声を掛けられそうなくらいに近い。今ある道は単に車が通れるようにした後世の道だ。
川を使い、けもの道を使い、今のような遠回りをしない分、距離というものについての感覚は随分違っていたのかもしれない。


ちょうど去年の今頃行ったときは、十津川から竜神へぬける県道・竜神十津川線の民宿に泊まって、その両脇に入り込んでいる集落ひとつひとつに分け入りながら寺垣内というバスの終点から少し西の古谷川というところまで行った。
県道は川に沿って、谷に近く、薄暗いところが多いのだが、
集落、とよべるものは、その奥の比較的広々とした空間や山を登りきったところに切り開いた明るい場所にある。



民宿で食べたきのこがあまりに美味しかったので、聞いてみると「上湯川きのこ生産組合」でつくっているとのこと。道の途中で見つけたので寄ってみると、こころよく見学させてくれた。

山の上からみると、となりの山は声を掛けられそうなくらいに近い。今ある道は単に車が通れるようにした後世の道だ。
川を使い、けもの道を使い、今のような遠回りをしない分、距離というものについての感覚は随分違っていたのかもしれない。


2007.04.11
宇陀の桜
『山姥(やまうば)のからだ隠せし桜花こころはなんどでもよみがへる』 禰子
土曜の雨もあがったので、日曜日は久々に遠出。といっても普段なら1時間半もあればつくようなところをどれくらいかかったろうか。途中の長谷寺までものすごい渋滞だった。
犬鳴山にも居たが、長谷寺にも遣手婆(やりてばばぁ)がいる。もちろん時代が時代なので、駐車場用遣手婆である。それはもういやらしいくらいに車道に食い込んできて、両手で手招きをする。こっちはまだまだ奥にいくというに、関係なくあまりにずうずうしく手招きされて、ふと入ってしまいそうになるから要注意だ。
長谷寺を越えるととつぜん前後に車がなくなった。
でもこの上り坂はネズミ捕りをしていることがあるので注意しながら走る。
榛原(はいばら)をかすめ、曽爾方面へ南下。
ほどなく仏隆寺への集落のある地道に入りそれから2キロわりと細めの道をのぼりきる。
予報どおり一分咲きのままだった・・・ちなみに樹齢900年余、らしい。

6年前、満開のときの写真。

寺の入り口には、「客」が100円いれるかどうか見張るためだけにひざ掛けをして単行本をしきりに読んでいる「見張りおばちゃん」約一名。子がお金を渡そうとすると「お嬢ちゃんのぶんはいらないのよ〜、パパとママのぶんだけね。はい、そっちへ入れて頂戴」。子の手はむなしく入り口中央へ置かれた賽銭箱へ。
手から手へ受け取ることもできないで何の寺院ぞ。と内心気色ばむが、それも当然のことなのかもしれない。放浪の遊行者ではなく地域の見張り番と成り果てた社寺は、恨まれることも多かったに違いなく、そうなれば庶民から出される手に対する恐怖心も芽生えるであろう。
・・・今日の私はどうもいぢわるな思考回路が前面にでる。
まわりの水車も入魂感のない、いかにも助成金でつくった水車。
老体(桜)をだしに、もてなしのこころをとうに忘れ去ってしまった土地を後に、このままでは消化不良、大宇陀・阿騎野の又兵衛桜まで行くことに。
ライトアップの前に温泉と夕食。
カルキ臭いがまぁまぁのつるつる感。洗い場は相変わらず混み混み。少なすぎるのだ。
露天につかりながら黄砂でどんよりと曇った阿騎野の空を眺める。
湯上りには地元牛の牛丼(500円なり)を食べるつもり。以前食べたとき美味しかったのだ。
・・・と思ったら館内にあった小さな喫茶店兼食堂は、健康器具置き場と化し、かわりに小奇麗な食堂が増設されていた。
この日2度目の「おもてなし感のなさ」を味わう。ここは客観的に書きようがないのでそんなことないと反論されればそれまでだが、写真に対して実物のあまりの小ささ、盛り付けの無粋さ、にめげることのない?値段設定。
おまけに「ただいまお食事をされた方に食後のお飲み物を100円で」とあったのでコーヒーを頼んだところ「!?」どう味わっても、何度舌で転がしてみても、眼を瞑って味わってみても、インスタントコーヒー。すでにここでこの日3度目の「おもてなし感のなさ」。
又兵衛桜の周辺は、有名になるにつれて「駐車場代で一儲け」組が増えたのだが、夜だし大丈夫かな?と思いつつ進む。車道は完全に両脇パイロンで固められ、あえなく駐車場へ入場。窓をあけたとたん「500円です」・・・。覚悟は決めていたが4度目のおもてなし感の・・・。
すっかり様相を変えた又兵衛の周囲。数年前最後におとづれた時に始まっていた護岸工事や公園の整備などもとりあえず終わっているふうで無味乾燥な観光地と成り果てる。
追い討ちをかけるように看板を発見。
「桜まつり実行委員よりお願い」として1人100円寄付とある。
桜の周りの田んぼにも立て札が・・・
「無断入場おことわり・席料おひとり100円、場所は当方で決めさせていただきます」。
確かにたくさんの観光客が落としてゆくものの中には、ご当地の人にとってありがたくないものもあるだろう。それを処理するための費用というのもそれ相当にかかるのはわかる。
でも、でも、という言葉をぐっと呑みこんだ(←呑み込んでないやん)。
桜はうつくしかった。

いつも時期を逃して微妙に葉桜になっていたのだが、今回はちょうど満開。
ライトアップに耐えて耐えて全身白塗りになったような桜を痛々しく愛で終え、畝傍山の横を通ってもどってきた。
観光日和の日曜は、いつもに増して交通マナーが悪い。
辺境の地(←交通の便もよくなり、もはや死語かも)に対する幻想はとうの昔に捨て去ったはずが、日曜一日の憤慨振りを振り返ると、まだまだ期待してしまっていることがあるようで・・・。

『指示器さへ点けるの疎(うと)しの民である 河内大和の卑しき距離感』 禰子
宇太水分神社(菟田野区)へも行った。
今日は饒舌に過ぎたので、いずれまた。
土曜の雨もあがったので、日曜日は久々に遠出。といっても普段なら1時間半もあればつくようなところをどれくらいかかったろうか。途中の長谷寺までものすごい渋滞だった。
犬鳴山にも居たが、長谷寺にも遣手婆(やりてばばぁ)がいる。もちろん時代が時代なので、駐車場用遣手婆である。それはもういやらしいくらいに車道に食い込んできて、両手で手招きをする。こっちはまだまだ奥にいくというに、関係なくあまりにずうずうしく手招きされて、ふと入ってしまいそうになるから要注意だ。
長谷寺を越えるととつぜん前後に車がなくなった。
でもこの上り坂はネズミ捕りをしていることがあるので注意しながら走る。
榛原(はいばら)をかすめ、曽爾方面へ南下。
ほどなく仏隆寺への集落のある地道に入りそれから2キロわりと細めの道をのぼりきる。
予報どおり一分咲きのままだった・・・ちなみに樹齢900年余、らしい。

6年前、満開のときの写真。

寺の入り口には、「客」が100円いれるかどうか見張るためだけにひざ掛けをして単行本をしきりに読んでいる「見張りおばちゃん」約一名。子がお金を渡そうとすると「お嬢ちゃんのぶんはいらないのよ〜、パパとママのぶんだけね。はい、そっちへ入れて頂戴」。子の手はむなしく入り口中央へ置かれた賽銭箱へ。
手から手へ受け取ることもできないで何の寺院ぞ。と内心気色ばむが、それも当然のことなのかもしれない。放浪の遊行者ではなく地域の見張り番と成り果てた社寺は、恨まれることも多かったに違いなく、そうなれば庶民から出される手に対する恐怖心も芽生えるであろう。
・・・今日の私はどうもいぢわるな思考回路が前面にでる。
まわりの水車も入魂感のない、いかにも助成金でつくった水車。
老体(桜)をだしに、もてなしのこころをとうに忘れ去ってしまった土地を後に、このままでは消化不良、大宇陀・阿騎野の又兵衛桜まで行くことに。
ライトアップの前に温泉と夕食。
カルキ臭いがまぁまぁのつるつる感。洗い場は相変わらず混み混み。少なすぎるのだ。
露天につかりながら黄砂でどんよりと曇った阿騎野の空を眺める。
湯上りには地元牛の牛丼(500円なり)を食べるつもり。以前食べたとき美味しかったのだ。
・・・と思ったら館内にあった小さな喫茶店兼食堂は、健康器具置き場と化し、かわりに小奇麗な食堂が増設されていた。
この日2度目の「おもてなし感のなさ」を味わう。ここは客観的に書きようがないのでそんなことないと反論されればそれまでだが、写真に対して実物のあまりの小ささ、盛り付けの無粋さ、にめげることのない?値段設定。
おまけに「ただいまお食事をされた方に食後のお飲み物を100円で」とあったのでコーヒーを頼んだところ「!?」どう味わっても、何度舌で転がしてみても、眼を瞑って味わってみても、インスタントコーヒー。すでにここでこの日3度目の「おもてなし感のなさ」。
又兵衛桜の周辺は、有名になるにつれて「駐車場代で一儲け」組が増えたのだが、夜だし大丈夫かな?と思いつつ進む。車道は完全に両脇パイロンで固められ、あえなく駐車場へ入場。窓をあけたとたん「500円です」・・・。覚悟は決めていたが4度目のおもてなし感の・・・。
すっかり様相を変えた又兵衛の周囲。数年前最後におとづれた時に始まっていた護岸工事や公園の整備などもとりあえず終わっているふうで無味乾燥な観光地と成り果てる。
追い討ちをかけるように看板を発見。
「桜まつり実行委員よりお願い」として1人100円寄付とある。
桜の周りの田んぼにも立て札が・・・
「無断入場おことわり・席料おひとり100円、場所は当方で決めさせていただきます」。
確かにたくさんの観光客が落としてゆくものの中には、ご当地の人にとってありがたくないものもあるだろう。それを処理するための費用というのもそれ相当にかかるのはわかる。
でも、でも、という言葉をぐっと呑みこんだ(←呑み込んでないやん)。
桜はうつくしかった。

いつも時期を逃して微妙に葉桜になっていたのだが、今回はちょうど満開。
ライトアップに耐えて耐えて全身白塗りになったような桜を痛々しく愛で終え、畝傍山の横を通ってもどってきた。
観光日和の日曜は、いつもに増して交通マナーが悪い。
辺境の地(←交通の便もよくなり、もはや死語かも)に対する幻想はとうの昔に捨て去ったはずが、日曜一日の憤慨振りを振り返ると、まだまだ期待してしまっていることがあるようで・・・。

『指示器さへ点けるの疎(うと)しの民である 河内大和の卑しき距離感』 禰子
宇太水分神社(菟田野区)へも行った。
今日は饒舌に過ぎたので、いずれまた。
2007.02.27
うつそみの
『日没のもう済みてある奈良盆地 残るひかりが駆けおりるまでに』 禰子
もう10年以上前にもなるが、春日大社で結婚式を挙げた。
同じ日が日曜日に重なったので、ひさしぶりに行ってみた。


奈良盆地の東の縁を山之辺の道の横を南下して戻る。
二上山が真横に見えてきたら、西に直進する。
バイパスがずいぶんできていたが、できるだけまっすぐに戻ってくる。
奈良から見た二上山は、いつもの河内からの二上山とは別の山のように見える。
葛城・金剛の山は、河内から見れば奥まったところにあり、いざというときに逃げられる場所、に見えるけれど、奈良から見上げると、断崖絶壁のように聳え立つ障壁。畏怖の対象だ。
二上山は反対に、河内から眺めるとのっぺりとした駱駝の背の切り絵が貼ってあるだけに見える。奈良からだと、すこし斜に構えて奥行きがあり、そのくせ標高が低い分、すぐにでも越えられそうな、やわらかな山だ。
大阪ではいつも朝日は山から昇る。
山の向こうの夕やけを見て、一瞬夜明け前に道を駆けているような気がした。
もう10年以上前にもなるが、春日大社で結婚式を挙げた。
同じ日が日曜日に重なったので、ひさしぶりに行ってみた。


奈良盆地の東の縁を山之辺の道の横を南下して戻る。
二上山が真横に見えてきたら、西に直進する。
バイパスがずいぶんできていたが、できるだけまっすぐに戻ってくる。
奈良から見た二上山は、いつもの河内からの二上山とは別の山のように見える。
葛城・金剛の山は、河内から見れば奥まったところにあり、いざというときに逃げられる場所、に見えるけれど、奈良から見上げると、断崖絶壁のように聳え立つ障壁。畏怖の対象だ。
二上山は反対に、河内から眺めるとのっぺりとした駱駝の背の切り絵が貼ってあるだけに見える。奈良からだと、すこし斜に構えて奥行きがあり、そのくせ標高が低い分、すぐにでも越えられそうな、やわらかな山だ。
大阪ではいつも朝日は山から昇る。
山の向こうの夕やけを見て、一瞬夜明け前に道を駆けているような気がした。
2007.01.07
井光(いひか) 土蜘蛛(つちぐも)
『悲しきは井光、土蜘蛛。倭なす神らのごとくさとくはあらず』 岡野弘彦
起床も遅く、気象もひどく、遠出はあきらめ、ひさしぶりに竹内街道を奈良へと越えてきた。
相撲館『けはや座』へ行ってみた。土俵に上ってもいいですよ、と言われ、早速相撲をとる父娘。年明けは今日から開館しているのだが、もちろん(?)貸切状態だ。なかなかりっぱな土俵だ。塩も撒き放題で、娘はすっかり力士気分。
こういう地方の資料館には、往々にして独自ビデオ(それもかなり手の込んだもの)があって、結構おもしろかったりする。今回も職員の方が「ビデオ上映しますが、ご覧になりますか?」と声をかけてくれたのでお願いすると、巨大スクリーンが下りてきて、當麻蹶速(たいまのけはや)物語が上映された。

簡単に言ってしまうと、當麻の怪力男が天皇に睨まれて、天皇御指名の出雲の怪力男(野見宿禰のみのすくね)と勝負しろといわれる。今まで怖いもの知らずだった當麻蹶速は、みるも無残に惨敗。領地も奪われてしまった。というもの(ビデオの物語では、7日間勝負がつかず、最後に土俵に入ってきてしまった幼子を助けようとした當麻蹶速が負けてしまう。そして負けたにもかかわらず「怪我がなくてよかった・・・」と幼子をみて微笑む蹶速・・・そんなアホな)。
まつろわなかった出雲をも見方につけて、倭王朝は古豪・鴨氏の末裔をも破る。
負けた側が神になるという話は日本では当たり前すぎるくらい日常茶飯事なのだが、ここでもやはりそういう展開がまちうけていた。
負けた當麻蹶速が相撲の開祖になっている。
相撲というのが一種の神事であり、その開祖が辺境の怪力男に一瞬にして殺されたとあっては、當麻蹶速というのはタタリ神の一種と思ってさしつかえないだろう。
「潰す→奉る」「潰す→奉る」「潰す→奉る」・・・を繰り返してこの国が大きくなってきたのだとすれば、「卑しきもの」は昔「貴きもの」、「貴きもの」は昔「卑しきもの」であり、「貴賎のあわい」というのは、そのときどきにある姿を現したものにすぎない。負けたものを「まつる」というやり方が、貴種流離譚を好む土壌になっているのかな、と思いながら、二上山の間を、夕やけもおちてしまった茅渟(ちぬ)の海のある西へ向かって戻ってきた。
ちょっと珍しい雑誌の表紙も。

ひさしぶりに中将餅のおぜんざいも。

起床も遅く、気象もひどく、遠出はあきらめ、ひさしぶりに竹内街道を奈良へと越えてきた。
相撲館『けはや座』へ行ってみた。土俵に上ってもいいですよ、と言われ、早速相撲をとる父娘。年明けは今日から開館しているのだが、もちろん(?)貸切状態だ。なかなかりっぱな土俵だ。塩も撒き放題で、娘はすっかり力士気分。
こういう地方の資料館には、往々にして独自ビデオ(それもかなり手の込んだもの)があって、結構おもしろかったりする。今回も職員の方が「ビデオ上映しますが、ご覧になりますか?」と声をかけてくれたのでお願いすると、巨大スクリーンが下りてきて、當麻蹶速(たいまのけはや)物語が上映された。

簡単に言ってしまうと、當麻の怪力男が天皇に睨まれて、天皇御指名の出雲の怪力男(野見宿禰のみのすくね)と勝負しろといわれる。今まで怖いもの知らずだった當麻蹶速は、みるも無残に惨敗。領地も奪われてしまった。というもの(ビデオの物語では、7日間勝負がつかず、最後に土俵に入ってきてしまった幼子を助けようとした當麻蹶速が負けてしまう。そして負けたにもかかわらず「怪我がなくてよかった・・・」と幼子をみて微笑む蹶速・・・そんなアホな)。
まつろわなかった出雲をも見方につけて、倭王朝は古豪・鴨氏の末裔をも破る。
負けた側が神になるという話は日本では当たり前すぎるくらい日常茶飯事なのだが、ここでもやはりそういう展開がまちうけていた。
負けた當麻蹶速が相撲の開祖になっている。
相撲というのが一種の神事であり、その開祖が辺境の怪力男に一瞬にして殺されたとあっては、當麻蹶速というのはタタリ神の一種と思ってさしつかえないだろう。
「潰す→奉る」「潰す→奉る」「潰す→奉る」・・・を繰り返してこの国が大きくなってきたのだとすれば、「卑しきもの」は昔「貴きもの」、「貴きもの」は昔「卑しきもの」であり、「貴賎のあわい」というのは、そのときどきにある姿を現したものにすぎない。負けたものを「まつる」というやり方が、貴種流離譚を好む土壌になっているのかな、と思いながら、二上山の間を、夕やけもおちてしまった茅渟(ちぬ)の海のある西へ向かって戻ってきた。
ちょっと珍しい雑誌の表紙も。

ひさしぶりに中将餅のおぜんざいも。

2006.12.08
天辻峠
『峠道 草が覆ってけものみち 今はしずかに眠る坂道』 禰子
十津川の手前、今は五條市に含まれてしまった大塔村に天辻はある。
冬、十津川に行くのに、このあたりがいちばん凍っていて、
うねうねと道がつづいている。
天誅組がことをおこしたとき、五條の奥の陣地があった場所が、
道の駅の北東側の山の上にあるというので細い道をのぼってゆく。
方向転換もままならない道をやっとのぼりきったところに、4〜5件の長屋風家屋があり、その奥のお堂に隣接して、平成17年に整備されたばかりの「維新歴史公園」があった。石碑やら歌碑やらがごろごろしているが、どれもネットと鍵付き扉で仕切られている。歌碑の前のベンチにも行けないのか!?
よく見ると、「鹿防御ネット」だった・・・。
お堂は「天辻地蔵尊堂」。

この石の方の小さいお地蔵さまは、和歌山県境にいたのに、「天辻へ連れて行っておくれ」とわざわざ所望されて、こちらへやってきたそうだ。木の方の地蔵さまは、天川村で弘法大師が阿弥陀如来・不動尊・地蔵尊三体を刻み「お好きなところへ」と言ったところ、地蔵尊が「天辻へ」と言ってやってきたそうだ。
「地蔵」という名の下に天辻にやってきたのは何なのか。
やって来たものと引きかえに人が明け渡したものは何なのか。

弘法大師(や行基菩薩)は、巨大公共事業を取り仕切っていたドン。
「地蔵」は「役人」として各事業所(ここでは天辻)に派遣される。
山にへばりついて生きてきた人に、「地蔵」はいろいろなものを与えてくれる。
辺境の地には、魂を売ってしまいたいくらいの、
精神面・物質面ギリギリの生活がある。
さらに奥には6〜7件の廃屋、廃屋のさらに奥にはなぜが豪邸があった。

幾重にもつらなった山の向こうのまつりごとに馳せる思いの強さ。
国へのゆがんだ想い。
幕府終焉の臭いを嗅ぎつけて急場でこしらえたものではない。
「日本」の精神構造は、山(鄙)と都を底に据えることでなんとか成り立っているのではないかとさえ思う。
十津川の手前、今は五條市に含まれてしまった大塔村に天辻はある。
冬、十津川に行くのに、このあたりがいちばん凍っていて、
うねうねと道がつづいている。
天誅組がことをおこしたとき、五條の奥の陣地があった場所が、
道の駅の北東側の山の上にあるというので細い道をのぼってゆく。
方向転換もままならない道をやっとのぼりきったところに、4〜5件の長屋風家屋があり、その奥のお堂に隣接して、平成17年に整備されたばかりの「維新歴史公園」があった。石碑やら歌碑やらがごろごろしているが、どれもネットと鍵付き扉で仕切られている。歌碑の前のベンチにも行けないのか!?
よく見ると、「鹿防御ネット」だった・・・。
お堂は「天辻地蔵尊堂」。

この石の方の小さいお地蔵さまは、和歌山県境にいたのに、「天辻へ連れて行っておくれ」とわざわざ所望されて、こちらへやってきたそうだ。木の方の地蔵さまは、天川村で弘法大師が阿弥陀如来・不動尊・地蔵尊三体を刻み「お好きなところへ」と言ったところ、地蔵尊が「天辻へ」と言ってやってきたそうだ。
「地蔵」という名の下に天辻にやってきたのは何なのか。
やって来たものと引きかえに人が明け渡したものは何なのか。

弘法大師(や行基菩薩)は、巨大公共事業を取り仕切っていたドン。
「地蔵」は「役人」として各事業所(ここでは天辻)に派遣される。
山にへばりついて生きてきた人に、「地蔵」はいろいろなものを与えてくれる。
辺境の地には、魂を売ってしまいたいくらいの、
精神面・物質面ギリギリの生活がある。
さらに奥には6〜7件の廃屋、廃屋のさらに奥にはなぜが豪邸があった。

幾重にもつらなった山の向こうのまつりごとに馳せる思いの強さ。
国へのゆがんだ想い。
幕府終焉の臭いを嗅ぎつけて急場でこしらえたものではない。
「日本」の精神構造は、山(鄙)と都を底に据えることでなんとか成り立っているのではないかとさえ思う。
2006.12.02
十津川 その二
『崩れやすき山に暮せばかたくなにこころ堅めて十津川の武士』 禰子
十津川や野迫川の道を通って、いつも
「なぜ、人はこんなに崩れやすい土地にすんでいるのか」と思う。
十津川の大水害は明治22年(1889年)8月。
土砂崩れ・天然ダム・死者168人(戸籍にない人を含めると200人以上)・・・。
そして、十津川村民2489人が北海道新十津川へ移住・開墾の歴史をひらく。
近隣の村々も罹災した。移住もした
(ここんとこの数字、失念したので後日調べます)。
もちろん、死者168人というのは、当時の村にはインパクトがあったのだと思う。
それでも、十津川村の移住者2489人というのは、際立って多すぎる(ような気がする)。
行政も、救援活動の一環として、新天地をいろいろと模索し、
移住キャンペーンを行ったようだ。
それにしても、である。
十津川には、近隣の村とは出自が違う、との自負がある。
先祖が八咫烏(やたがらす)←「村」の先祖が「八咫烏」とはこれいかに!?
代々任免地(税金を払わなくてよかった)であった。←税金が取れるような肥沃な土地でなかったとの説あり。
文久3年(1863年)天誅組。
etc...
この国の中央(天皇あたりを想定しているらしい)と強く結ばれている、
ことを意識しているようだ。
十津川郷士は、なぜ陸の孤島とよばれるほど深い山の奥で、
いつも政(まつりごと)のことを想起していられたのだろうか。
十津川の男たるもの・・・という自負はいまだ引き継がれ、
今も剣道が盛んな土地だ。
初夏の旅の際立ち寄った喫茶店のマスターも、
OBとして剣道をおしえているらしく、
昨年の全国大会で水戸勢を破ったと誇らしげに語ってくれた。
(「水戸」に勝った、というのもかなりうれしかったらしい。
そして、「奈良」ではなく「十津川」、「茨城」ではなく「水戸」である)
「思い込んだら命がけ(つまりしつこい)」というのと、
普段考えている(と禰子的には思っている)「武士の潔さ」というのは、
違うようでいて、案外近そうだ、と
十津川を想ううちに考えるようになった。
そのあたりは、追々に・・・。
十津川や野迫川の道を通って、いつも
「なぜ、人はこんなに崩れやすい土地にすんでいるのか」と思う。
十津川の大水害は明治22年(1889年)8月。
土砂崩れ・天然ダム・死者168人(戸籍にない人を含めると200人以上)・・・。
そして、十津川村民2489人が北海道新十津川へ移住・開墾の歴史をひらく。
近隣の村々も罹災した。移住もした
(ここんとこの数字、失念したので後日調べます)。
もちろん、死者168人というのは、当時の村にはインパクトがあったのだと思う。
それでも、十津川村の移住者2489人というのは、際立って多すぎる(ような気がする)。
行政も、救援活動の一環として、新天地をいろいろと模索し、
移住キャンペーンを行ったようだ。
それにしても、である。
十津川には、近隣の村とは出自が違う、との自負がある。
先祖が八咫烏(やたがらす)←「村」の先祖が「八咫烏」とはこれいかに!?
代々任免地(税金を払わなくてよかった)であった。←税金が取れるような肥沃な土地でなかったとの説あり。
文久3年(1863年)天誅組。
etc...
この国の中央(天皇あたりを想定しているらしい)と強く結ばれている、
ことを意識しているようだ。
十津川郷士は、なぜ陸の孤島とよばれるほど深い山の奥で、
いつも政(まつりごと)のことを想起していられたのだろうか。
十津川の男たるもの・・・という自負はいまだ引き継がれ、
今も剣道が盛んな土地だ。
初夏の旅の際立ち寄った喫茶店のマスターも、
OBとして剣道をおしえているらしく、
昨年の全国大会で水戸勢を破ったと誇らしげに語ってくれた。
(「水戸」に勝った、というのもかなりうれしかったらしい。
そして、「奈良」ではなく「十津川」、「茨城」ではなく「水戸」である)
「思い込んだら命がけ(つまりしつこい)」というのと、
普段考えている(と禰子的には思っている)「武士の潔さ」というのは、
違うようでいて、案外近そうだ、と
十津川を想ううちに考えるようになった。
そのあたりは、追々に・・・。
2006.12.01
十津川 その一
2006.11.27
西吉野柿選果場
夕方の選果場は、混んでいた。
直売所へ買い物にくる客のために、なんで交通整理員がこんなに?
と思ったのもつかの間、
一日の収穫物を積んだ軽トラの交通整理のためだった。
右が早生の富有柿、左が普通の富有柿に分かれていたが、
11月18日夕方は、みんな普通の富有柿だった。

交通整理のおっちゃんに、
「もしかして、この時期の稼ぎで一年暮すんですか??」
と、尋ねたところ、
「そんな人もおるなぁ」とのこと。
ほんとだろうか・・・。

柿博物館までつくってしまうのだから、そうなのかもしれない。
だいたい、柿博物館までの農道は、山奥に不釣合いなくらい立派で、
トンネルや橋をふんだんに使った豪華農道だった。
周りの民家は柿御殿なのかも・・・
さて、お目当ての柿は、
ちょっと傷モノばかりだが、1キロ200円(4個くらい)。
7キロ購入した。
直売所へ買い物にくる客のために、なんで交通整理員がこんなに?
と思ったのもつかの間、
一日の収穫物を積んだ軽トラの交通整理のためだった。
右が早生の富有柿、左が普通の富有柿に分かれていたが、
11月18日夕方は、みんな普通の富有柿だった。

交通整理のおっちゃんに、
「もしかして、この時期の稼ぎで一年暮すんですか??」
と、尋ねたところ、
「そんな人もおるなぁ」とのこと。
ほんとだろうか・・・。

柿博物館までつくってしまうのだから、そうなのかもしれない。
だいたい、柿博物館までの農道は、山奥に不釣合いなくらい立派で、
トンネルや橋をふんだんに使った豪華農道だった。
周りの民家は柿御殿なのかも・・・
さて、お目当ての柿は、
ちょっと傷モノばかりだが、1キロ200円(4個くらい)。
7キロ購入した。
2006.11.23
柿博物館
日曜日、奈良は西吉野(現在は五條市に含まれた)の、
柿博物館に行ってきた。
この巨大柿を以前どこかのHPでチェックしてから、
いつかは訪れねば・・・と思っていたが、
柿のシーズン。選果場で柿購入も兼ねて、寄ってみた。
「巨大柿」は、思っていたほど「巨大」ではなかった。
が、景色はよい。奈良市街地(五條?)方面を広角でとらえることができる。

娘は到着直前に寝てしまった・・・。
とりあえず、中に入ってみる。
みれば、日本全国の柿、柿、柿!
受付のおじさんに聞いてみると本物だった・・・。
もちろん、この時期限定のレアモノです。

が、目玉はこのレア柿のみ。
秋に行くことを是非お勧めします。
広場のアミにはのぼると危険ということで、
手に"バナナ"を持つサルが・・・
"柿"でいいんでないかい?

その後、夕方のJA選果場へ・・・
柿博物館に行ってきた。
この巨大柿を以前どこかのHPでチェックしてから、
いつかは訪れねば・・・と思っていたが、
柿のシーズン。選果場で柿購入も兼ねて、寄ってみた。
「巨大柿」は、思っていたほど「巨大」ではなかった。
が、景色はよい。奈良市街地(五條?)方面を広角でとらえることができる。

娘は到着直前に寝てしまった・・・。
とりあえず、中に入ってみる。
みれば、日本全国の柿、柿、柿!
受付のおじさんに聞いてみると本物だった・・・。
もちろん、この時期限定のレアモノです。

が、目玉はこのレア柿のみ。
秋に行くことを是非お勧めします。
広場のアミにはのぼると危険ということで、
手に"バナナ"を持つサルが・・・
"柿"でいいんでないかい?

その後、夕方のJA選果場へ・・・
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