新しい年をむかえるために・・・
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『新しき年の始の初春の今日降る雪のいや重け吉事』 万葉集

こんなふうに新しい年を迎えるためには、
精神的にも、身体的にも、今年をきちんと消化してけじめをつけてないと・・・
というわけで、久々の大掃除です。
とにかく、我家は、空間的にいままで積もりに積もったいろんなものを
祓わなければ、年を越せそうにもありません・・・

といいながら、まず向かったのがパソコンの前・・・
ほんとにかたづくのでしょうか。
年の瀬なんて関係なくなったようで、やっぱりあわただしいこの数日。
昔立ち寄った野迫川村の廃村は、今どうなっているんだろうか。
ときどきは管理をしにきている形跡のある家もあったけど、
普段の生活を放棄されてしまった家々。
夜中、ふと眼が覚めると、あの集落がいま包まれている闇は、
どんなのだろうか、と思うことがよくある。
そんな場所にもお正月はおとづれるのだろうか。
「おとづれ」とは、「音連れ」なのだから、
もはや誰も戻ってこないその集落には、
何もおとづれないのだろうか。
それとも、山のオコリのようなかすかな振動や、鹿や、
少しずつ朽ちてゆく木材の音などがおとづれて、正月を祝うのだろうか。

・・・ついつい頭が遠くにいってしまうようで^^;
現実逃避せずに、掃除に邁進いたします。

『誰一人包むことなくひっそりと山に抱かれ眠る廃村』 禰子

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【2006/12/29 15:49】 | 日々雑記 | トラックバック(0) | コメント(10) | page top↑
天辻峠
『峠道 草が覆ってけものみち 今はしずかに眠る坂道』 禰子

十津川の手前、今は五條市に含まれてしまった大塔村に天辻はある。
冬、十津川に行くのに、このあたりがいちばん凍っていて、
うねうねと道がつづいている。
天誅組がことをおこしたとき、五條の奥の陣地があった場所が、
道の駅の北東側の山の上にあるというので細い道をのぼってゆく。
方向転換もままならない道をやっとのぼりきったところに、4~5件の長屋風家屋があり、その奥のお堂に隣接して、平成17年に整備されたばかりの「維新歴史公園」があった。石碑やら歌碑やらがごろごろしているが、どれもネットと鍵付き扉で仕切られている。歌碑の前のベンチにも行けないのか!?
よく見ると、「鹿防御ネット」だった・・・。
お堂は「天辻地蔵尊堂」。
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この石の方の小さいお地蔵さまは、和歌山県境にいたのに、「天辻へ連れて行っておくれ」とわざわざ所望されて、こちらへやってきたそうだ。木の方の地蔵さまは、天川村で弘法大師が阿弥陀如来・不動尊・地蔵尊三体を刻み「お好きなところへ」と言ったところ、地蔵尊が「天辻へ」と言ってやってきたそうだ。
「地蔵」という名の下に天辻にやってきたのは何なのか。
やって来たものと引きかえに人が明け渡したものは何なのか。
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弘法大師(や行基菩薩)は、巨大公共事業を取り仕切っていたドン。
「地蔵」は「役人」として各事業所(ここでは天辻)に派遣される。
山にへばりついて生きてきた人に、「地蔵」はいろいろなものを与えてくれる。
辺境の地には、魂を売ってしまいたいくらいの、
精神面・物質面ギリギリの生活がある。
さらに奥には6~7件の廃屋、廃屋のさらに奥にはなぜが豪邸があった。
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幾重にもつらなった山の向こうのまつりごとに馳せる思いの強さ。
国へのゆがんだ想い。
幕府終焉の臭いを嗅ぎつけて急場でこしらえたものではない。
「日本」の精神構造は、山(鄙)と都を底に据えることでなんとか成り立っているのではないかとさえ思う。

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【2006/12/08 01:13】 | ディープ奈良 | トラックバック(0) | コメント(1) | page top↑
十津川 その二
『崩れやすき山に暮せばかたくなにこころ堅めて十津川の武士』 禰子

十津川や野迫川の道を通って、いつも
「なぜ、人はこんなに崩れやすい土地にすんでいるのか」と思う。
十津川の大水害は明治22年(1889年)8月。
土砂崩れ・天然ダム・死者168人(戸籍にない人を含めると200人以上)・・・。
そして、十津川村民2489人が北海道新十津川へ移住・開墾の歴史をひらく。
近隣の村々も罹災した。移住もした
(ここんとこの数字、失念したので後日調べます)。
もちろん、死者168人というのは、当時の村にはインパクトがあったのだと思う。
それでも、十津川村の移住者2489人というのは、際立って多すぎる(ような気がする)。
行政も、救援活動の一環として、新天地をいろいろと模索し、
移住キャンペーンを行ったようだ。
それにしても、である。

十津川には、近隣の村とは出自が違う、との自負がある。
先祖が八咫烏(やたがらす)←「村」の先祖が「八咫烏」とはこれいかに!?
代々任免地(税金を払わなくてよかった)であった。←税金が取れるような肥沃な土地でなかったとの説あり。
文久3年(1863年)天誅組。
etc...
この国の中央(天皇あたりを想定しているらしい)と強く結ばれている、
ことを意識しているようだ。

十津川郷士は、なぜ陸の孤島とよばれるほど深い山の奥で、
いつも政(まつりごと)のことを想起していられたのだろうか。
十津川の男たるもの・・・という自負はいまだ引き継がれ、
今も剣道が盛んな土地だ。
初夏の旅の際立ち寄った喫茶店のマスターも、
OBとして剣道をおしえているらしく、
昨年の全国大会で水戸勢を破ったと誇らしげに語ってくれた。
(「水戸」に勝った、というのもかなりうれしかったらしい。
そして、「奈良」ではなく「十津川」、「茨城」ではなく「水戸」である)

「思い込んだら命がけ(つまりしつこい)」というのと、
普段考えている(と禰子的には思っている)「武士の潔さ」というのは、
違うようでいて、案外近そうだ、と
十津川を想ううちに考えるようになった。
そのあたりは、追々に・・・。





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【2006/12/02 06:49】 | ディープ奈良 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
十津川 その一
『山すべて賽の河原となりはてて崩れては積む十津川のみち』 禰子

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十津川村五百瀬より護摩壇山へ向かう林道にて

今年は縁あって十津川に二度訪れた。
短歌・旅行記少しずつ書いていきます。

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【2006/12/01 07:27】 | ディープ奈良 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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