訂正とご報告
先日のエントリでいなくなってしまったはずの鯛焼き屋さんが、
復活していました!
さらに階段に近づいて。
にぃちゃんは二人に増えて。
私みたいに心配してた人が多かったのか、
そういう作戦だったのか、
単にお正月休みだったのか。
とりあえず、相変わらず横目で階段を昇って降りてホームについた途端、
激しく鯛焼きのいいにおいに包まれて(ホームからの直線距離約5メートル!)、
あ゛~、買えばよかった!と思っても、もう電車近づいてるって・・・
買うのも時間の問題だな。
【2007/01/23 23:10】 | 日々雑記 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
宇宙塵
『朝食の用意しながら立ちながらワカメむしゃむしゃ食う宇宙人』 禰子

通勤途上の車両内だけがほとんど唯一の読書時間なのに、私が本を手にしているにもかかわらず声をかけられて正門までずっと・・・そのまま仕事に突入、ということが続くと精神的に滅入ってくる。滅入らなきゃいいんだろうけど、ちょっと最近は疲れているようで、ま、こころの振幅の一過程かと思うこととする(必ずしもお喋り嫌いなのではなく、読書できるはずの時間に読書できなかったことに対するストレスです)。

こういうササクレ立った気分のときに、いつも遠くから聞こえてくる『春と修羅』(序)。
私の極ゴク個人的な意見だけど、宮沢賢治はとてもイラチでちょっとしたことにもすぐ腹をたてていた一面もあるのではないかと思う(それを外に出せたかどうかとはまったく別の次元で)。
思う、というより、そうであってほしい と思う。
そんな時もある人のつむぎだす言葉が、春と修羅のようであってほしい。
人の中で聖と穢れが遠慮なくぶつかっていてほしい。


  序

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです

これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

けれどもこれら新生代沖積世の
巨大に明るい時間の集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらのことばが
わづかその一点にも均しい明暗のうちに
  (あるいは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や質を変じ
しかもわたくしも印刷者も
それを変らないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史 あるいは地史といふものも
それのいろいろの論料(データ)といつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたつたころは
それ相当のちがつた地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発掘したり
あるいは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません

すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます



     大正十三年一月廿日
宮沢賢治

     青空文庫(新字旧仮名、作品ID:1058)より引用
【2007/01/19 06:49】 | 日々雑記 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
蛾のうつくしさ
『ホームへとゆく階段に今朝もまだある蛾の屍骸がオブジェのごとく』 禰子

階段の垂直部分。広告とかよくつけているところ。
私が気づいてからだけでも、一週間はそこにあった。
蝶だとそうはいかないだろう。羽が薄いから。
昨夏、家の中に手のひらほどの蛾が入ってきたことがあった。
肉厚で柔らかそうな羽、その上のなんとも落ち着いた模様。
蛾って、どれくらい生きるのだろう(調べたらいいだけなんだけど、不精なのと、なんとなく知りたいような知りたくないような・・・)。

階段の蛾が掃除されてしまってから、階段を昇る楽しみがなくなってしまった。
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【2007/01/17 07:13】 | 日々雑記 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
街頭演説
『「中学生の3割以上が欝(うつ)傾向」拡声器広げる声華やいで』 禰子

年末はなぜか街頭演説が多かったが、正月明けとなるとパッタリなくなった。
「お仕事おつかれさまです」といいつつも、更に疲れを煽るような話しかたあり、もはやこの世はどうしようもないという嘆き節あり、ひたすらお願い節あり、その人の個性もでるのだろう。一概にはもちろん言えないけど、たいていの場合原稿を持っていて、それはなんとなく「その団体」共通の文脈がある。NHKニュースと一緒で、声は違えど一字一句同じことを言っていそうな雰囲気もある。
当事者でない、という声のトーンまでも拡声器で拡大されるような気がした。
【2007/01/14 08:55】 | 日々雑記 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
テキヤ
『駅の下屋台鯛焼き日にタイル1つ分ずつ近づいてくる』 禰子

勤務先の最寄り駅は、人もまばらな各駅停車の駅なので、
バス停も遠ければ、乗降客も少なめ。
最近やっと工事が終わって、駅前の広場が広くなった上に、
駅の下まで車が乗り入れできるようになった。
12月のある日、駅に向かっていると、駅下にひときわ明るいテキヤのあかり。
「売れてんかなぁ?」心配になりながらも、
「クリーム鯛焼き」とか「抹茶クリーム鯛焼き」とか、
お品書きがずらずら~っと貼り出してあって、
ちょっと気になってる。
毎夕ちらっと横目で見るのだが、急いでいることもあって買ったことがない。
でも、なんとなく横目で見る距離が近づいている。
「??」
急いでいるのであまり気にしない。
ある日、「ちらっと横目」の距離が止まった。
階段にこれ以上近寄れないところまで寄ってきていたのだった。
さすがに何人かは購入している姿もみるようになった。

でも、お正月を過ぎると、鯛焼屋はいなくなっていた。
やっぱり、あんまり売れなかったのだろう。
明るくて、ちょっぴりホッとしていたので、
時々は買っておけばよかった・・・なんて思うけどもう遅い。
【2007/01/13 07:48】 | 日々雑記 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
犬鳴山
『姥捨(うばすて)の道であるらし特養がならびて海に向かう外環(そとかん)』
 禰子

*外環=大阪外環状線(国道170号)

犬鳴に向かう道を走るときいつも、その土地の靈は人の生まれ死ぬサイクルよりもずっと長いと感じる。土地の記憶というのは、人が死んでも残って、そこを通った人に語りかける。

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『晴れがまし門松置けど山間(やまあい)の分譲霊園すべなく愛(かな)し』
『峠には遣手婆(やりてばばぁ)が今もいて「そこに停めてや。ハイ五百円」』
『嘆き死んだ遊女の墓のあるあたりから湧き出(いづ)る温泉ぬるし』
『土地の靈(ち)は祓い難くてその昔地震(なゐ)揺れるごとく虐げられし』
禰子
【2007/01/10 07:09】 | ディープ大阪 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
中上健次
『ミヤザワケンジ・ナカガミケンジ声に出し、はじめて同じケンジと気づく』 禰子

前回、中上健次が出たので、その続きで。
いちばん最初に新宮をおとづれたのは、12年前。そのとき実はまだ中上健次は新聞小説でしか読んだことがなかった。というより、まだ世の中にはきちんとした答えがあるとしか思っていなかった私には、その新聞小説はあまりに受け入れがたく、なんとなく敬遠する存在だった。『路地』跡を歩いてみても、そこに固執する作家の気持ちをわからなかったし、わからないことが苦痛にもならなかった。
でも、それ以後、突然新宮に行きたくなる自分がいる。
新宮に何があるというわけ、ではない。
その間、中上健次の小説・その他をたくさん読むようになった。
自分の曾祖母が新宮の出身だということもわかった。
『路地』はもう埋められ、削られ、ないのかもしれないが、
全てのことはもしかして、それしかないような気さえするほど、
大きな意味での「差別」する・されるという事態に、心惹かれる。
貴賎のあわいはどこにあるのか。それともないのか。
近畿のどんなに山奥に行っても、それはある。
沖縄と東北にはないとの説もあるが、しっかり歩いたことがないので、まだわからない。

事態の元はなになのか。
それが知りたくてあちこち歩き回る。

「なれ寿司の美味しいところしりませんか」といえば、車を出して買いに行ってさえくれた老舗商店のオヤジさんは、「ナカガミケンジ」の名を口にした瞬間、あきらかに嫌な顔をして話をそらす。
大きな神社の裏手の、昔遊郭街であったようなつくりの家々の前で、オバァと楽しく世間話をしても、話が昔に向いた瞬間、「いや、私はよそ者なんで、知らないんやよ」と、サッと手を引っ込める。

新宮全体で何かを隠しているような気もする。
熊野詣の最終地点。
昔からここで何がおこなわれてきたのか。
他言無用の空気を感じる。
よそ者には知られたくない宝を守りとおすかのように。
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【2007/01/07 09:44】 | ディープ和歌山 | トラックバック(1) | コメント(0) | page top↑
この山道を
『葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり』 折口信夫(釈迢空)

新しい年になった。
あざやかに情景が目の前に立ち現れる歌として、私は折口信夫のこの歌を思う。葛の花は秋なので、季節的にちがうじゃないか、とも言えるのだけれど、それ以上に「新年」の気分に近いものがある(ような気がしませんか?)。

(禰子訳)こんなに山奥に、私以外の人が通ったような空気なぞ、どこにもないというに、踏みしだかれた葛の色は、ついさっき踏まれたように新しいにじみを陽にさらしている。
「山道」を辿っているのは、わたしだけじゃない。と思うときの、私だけだと思っていたのに私だけじゃなかった喪失感と安堵感。かなしいのにうれしい。ひとりぼっちなのにひとりぼっちじゃない。私じゃなくなったのに本当の場所に辿りついた気分・・・私もまた皆が通る「この道」を今歩いているのだ。

『今朝摘んだ花のにおいの中にある遠い昔と未来の記憶』 禰子

【2007/01/01 02:51】 | 日々雑記 | トラックバック(0) | コメント(4) | page top↑
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