道を越える
『水茄子の藍(あお)ゆびさきに伝われば心残りもなく痣となる』 禰子

半年ぶりの熊野のじぃちゃんばぁちゃんの家。注意しているにもかかわらず、わき道への曲がり角をいつも見失いそうになる。ドキドキしながら探さないと、二度と見つけられないんじゃないか、とさえふと思う。
小学生のころの愛読書で、その後大人になってからも幾度となく読み返した本に『霧のむこうのふしぎな町』という児童文学がある。ほんとうに何度読んだかしれない、大好きな本。
「きちがい通り」(今はその名は変えられているようだ)にたどり着くには「招待状」がないといけない。地図がまったく役に立たない。熊野のじぃちゃんちに行くときもそんな試されているような気持ちがある。

紀伊半島国道42号線を南へ・東へ進むとき、いつも「このトンネルを過ぎたら熊野」と自分で勝手に思っていた小さなトンネルがあった。半年ぶりにそこにあったのは、削り取られた山とそこに新設された道、トンネルも閉鎖されながらもわずかにその姿を残してはいたが、破壊されるのも時間の問題という感じだった。
その小山が、何かを隔てているような気がしていたのに。
何か、はよくわからないのだけど、海の何か、と山の何か、を隔てていた。またはここから先は法の届かぬ熊野の地(かどうかはわからないけど)、そんな空気があった。
中上健次が見たら、どう表現するのか。聞いてみたい。

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【2007/05/28 01:28】 | ディープ和歌山 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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