風に揺れる
『樟(くすのき)のさやとそよげば上町のビル風すこし自然送風』 禰子

駅を降りて10分の間に、お地蔵さまの祠が三つある。
ビルの合間にまだ残っているそれらや木々が、
その時々の人々の気持ちを受け止める装置として機能してきたことを思う。
なぜなら、わたしもまた、託したい何かを持ちながら、その横を過ぎているという
あまりにも当たり前のこと。

装置、とか機能、とか。
相対化した、自分の皮膚と繋がっていないものを語るような言葉ではなく、
そこに祈りがあるという、当たり前のこと。

【2008/04/23 21:48】 | ディープ大阪 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
桜の森の満開の下
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『桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子(だんご)をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。なぜ嘘かと申しますと、桜の花の下へ人がより集って酔っ払ってゲロを吐いて喧嘩(けんか)して、これは江戸時代からの話で、大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。近頃は桜の花の下といえば人間がより集って酒をのんで喧嘩していますから陽気でにぎやかだと思いこんでいますが、桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になりますので、能にも、さる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまう(このところ小生の蛇足(だそく))という話もあり、桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。』
――坂口安吾『桜の森の満開の下』冒頭――

今年はついに、ゆっくりと桜を見る機会がなかった。
そして、かならず毎年読むことにしている『桜の森の満開の下』を
読むことが出来なかった。
安野光雅の表紙絵の、ちくま日本文学全集の、
坂口安吾がみあたらない。
それで、青空文庫で坂口安吾を検索すると、あいうえお順なので「悪妻論」なるものをみつけ、
ついつい読んでしまった。

『私は逆説を弄してゐるわけではない。人生の不幸、悲しみ、苦しみといふものは厭悪、厭離すべきものときめこんで疑ることも知らぬ魂の方が不可解だ。悲しみ、苦しみは人生の花だ。悲しみ苦しみを逆に花さかせ、たのしむことの発見、これをあるひは近代の発見と称してもよろしいかも知れぬ。』

もっともでございますが、安吾さま。



【2008/04/20 21:55】 | 日々雑記 | トラックバック(0) | コメント(5) | page top↑
二度目の奈良歌会
『絶え間なく溶けゆく雪は状態に執着することなく転生す』 勺禰子

短歌人初参加は去年の四月、一年に一度だけの奈良での歌会だった。
『夕焼けの燃えて入(い)る先茅渟(ちぬ)の海 荒魂雛(あらたまひいな)の舟諸共に』 
加太の淡島神社の雛流しを見た帰りの車窓からずっと眺めていた落日に、不意に手を掴まれひきずりこまれそうになった、気がした。
でも、歌にしなければその記憶も少しずつ淡くなっていたかもしれない。
歌にするようになってから、なにか拭いきれないものが定着してゆく。

ことだまの不思議をおもう。

一年ぶりの奈良を、懐かしいような、ずっと前から今日の日をしっていたような気持ちで歩いてきた。

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【2008/04/07 19:57】 | 歌会・その他短歌 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
『山姥(やまうば)のからだ隠せし桜花こころはなんどでもよみがへる』 禰子 再掲

昨春、そう詠んでしまったものの、
こころが何度でも黄泉がえるのか
からだが何度でも黄泉がえるのか
よくよく考えたならば、よくわからない。

気がつけば櫻は満開だ。
通勤途上のお寺の塀から
櫻があふれている。
ほんの少しだけ入ってみた。
すんと黒い幹が、
語るともなく語りかける。
幹は春夏秋冬そこに居て、
花びらに合うように、葉に合うように、
ほんの少しずつ色を変じながら、
少しずつ幹を太らせてゆく。
ソメイヨシノの淡い色に、
一段と漆黒の度合いを濃くし、
またよみがえる季節に、
息を吹き返すのは幹なのか、花びらなのか。

幹が吹き返した息の、
その吐息が花びらなら、
散るよりも前に、
花びらはすでに亡骸。

そんなことを少し考えた。

【2008/04/05 01:11】 | 日々雑記 | トラックバック(0) | コメント(1) | page top↑
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