短歌人 12月号
建設的解消したし飼い猫も疲れた飼い猫飼育係も

「礼の限りを尽くさむ」といふふとどきな言葉使はず命終へたき

目の前の熊蝉が土に潜りゐし六年前の二人の距離は

「考へても、考へなくても同じこと」匙を投げたのではありませぬ

キヨスクでマスクを売つて呉れたつけ老夫婦失せて自販機聳ゆ

永遠の循環を分離してくれた乾燥剤を恨む水蒸気

勺 禰子 (しゃく ねこ)


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●8月号「20代30代会員競詠」評

「これが最後のチャンス!」 と毎月送られてくるベネッセの 「こどもチャレンジ」
                                        勺 禰子

78757と読んだ。「最後の/チャンス」 とまたがって、語が強調されるところ、
リズムと内容が合致する。感嘆符つきで「最後」と言う商魂。
その逞しい商魂を、毎月笑って楽しむ「私」。こちらが一枚上。
(黒木三千代 評)

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●作品月評*10月号

岸恵子みたいな女になれと言ひ、父があたしに飲ませた洋酒。
                                        勺 禰子

センスの良いお父さんで、うらやましく思う。
当時の岸恵子は国際女優であり、日本の女性の中でも抜群に
「いい女」というイメージがあったのではないか。
その言葉が娘である作者の心に今にしてよみがえってくることの面白さ。
下の句の「あたし」という一人称も見事な効果をあげている。
着眼点、技術力ともにすぐれた作家として期待は大きい。
(藤原龍一郎 評)

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お風呂を沸かしなおしている待ち時間、
調子にのってUPしてしまいました。
ご容赦ご容赦。
【2008/11/27 23:27】 | 短歌人誌 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
雨の東寺・大日如来のことなど
夕方、待ち合わせのために京都に行くので、
通り道のお寺お寺・・・
ということで、ずいぶん久しぶり(というか、約30年ぶり・・・え゛っ)に
東寺に行ってきた。

たぶん幼稚園のころ、
父親が急に東寺に行くと行って、でかけた思い出がある。
堺の片田舎で今思えばちょっと浮いた我が家では、
父はお洒落な三つ揃えを着て帽子を被り、
母は千鳥格子のワンピースにブーツを履いて、
わたしは・・・あんまり覚えてないけど、ちょっとお出かけ服を着て、
2時間かかって京都へゆき、
そこからタクシーで東寺へ行ったのは覚えている。
そこで、どういう理由だったかまったく覚えていないが、
父の機嫌が悪くなり、肝心の東寺をちゃんとみないまま、
どこかの小料理屋で食事をしただけで戻ってきたような映像が、
かすかにどこかに残っている。

その後は、10年程前、
友達の個展に出かけたのが確か東寺前。
そのときも入らなかったので、
もしかすると、東寺初入門!かもしれない。

食堂(じきどう)は、なにか商売っぽい絵がたくさん売られているだけで、
正直、あまり感心しない。

雨の中、講堂へ入る。
脇を固める国宝、国宝・・・
でも、なんだか表情やからだの線が硬くて、すっと入ってこない。
その真ん中に異様な存在感の大日如来がいた。
(これは国宝じゃなくて重文)
この大日如来さま、一度見たら忘れられない顔をしている。
しかも、角度によって、まったく表情が違う。
少しずつ動きながら眺め、とうとう正面に来た。
そして反対側まで、ゆっくり移動しながら角度の違う大日如来を見て、
また、正面に戻ってきた。

そして、しばらく黙ってにらみ合っていた。
・・・というか、見つめ合っていた。
大日如来はわたしのこころの中をご存知のようだった。
でも、わたしにもわからないそれを、
教えてくれるでもなく、静かに
「見ていますよ」とでも言いたそうな顔をしてるだけだった。

来てよかった、と思いながら、
待ち合わせの場所に向かって歩き出した。

toji_dainichi.jpg
(中は撮影禁止なので、外から・・・^-^;)





【2008/11/25 01:35】 | ディープ近畿(上記以外) | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
わたしには・・・
なんで短歌なのかなぁと思う。

そして、
たまたまでも、
必然でも、
関係ない、と思う。

私のいま がそうであるように、
それは、
たまたまでも、
必然でも、
関係のないことだ。

自分で選び取ってはいるのだろうけれど、
自分の力だけで選び取れるものじゃない。

なんで?(すみません、イントネーションは大阪弁で)
と考える暇があれば、
もっと詠んで、もっとちゃんと生きる。
それだけ、と思う。
夕方、山の稜線を見ながら、そう思った。
(↑思ってるだけなところがすでに×っ!!)
wakasajinguji_michi.jpg

寒月や猫の帰りも早まれり
十七音では足りない私


【2008/11/23 22:42】 | 日々雑記 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
若狭路
土曜日はちょっとした目的があり、若狭路へ日帰り小旅行。

京都から湖西線に乗り、近江今津までゆき、
そこからバスで一時間。
鯖街道を使えば、敦賀なんて行かなくても、案外日本海は近い。
(あ!でもそういえば海は見てない!)

若狭一ノ宮は若狭姫神社が街道を入ってすぐのところにあり、
そこから1.5キロ奥に若狭彦神社がある。
上下宮、二つあわせて若狭一ノ宮。
神様とはいえ、1.5キロも離れているのは、ちょっと淋しいよね。

その奥には奈良の東大寺の「お水取り」のために「お水送り」をする、
若狭神宮寺がある。
3月、神宮寺の閼伽井戸に入れた水が10日間かかって
奈良東大寺の若狭井に辿り着くと信じられていた。
(信じられている?←信仰的には現在進行形ですね。)
「送られた」水だから、「取る」。
あー、お水取りの意味がやっとわかった。

「人が死ぬとき、「息を引き取る」とニュースでいいますが、
あれは間違いです。
人は死ぬとき、なにものかに「息を引き取られる」のです」
というM教授の静かな声が頭の中で聞こえてきた。

・息は引き取られるもの
・渦巻きはつむじ曲がり
・山の霊気を感じて歩きなさい

役にたってんのか、たってないのか、わかんないけど、
とりあえず、定期的にこれらの言葉(呪文)がやってきます。

あ、話がそれた・・・若狭路小旅行の続き。
バスや電車の本数がすくなく、
待っているならと、つい7キロも歩く(歩きすぎ・・・)。
帰りのバスは程よく疲れて(ほどよくお酒もまわって、か。)、
早々に夢の中。
でも、三十分して、パッと目が覚めた。
そこは、峠の入り口。
うー、また峠に呼ばれている禰子なのでした。

wakasajinguji.jpg

ちなみに神宮寺は明治の廃仏毀釈のときも、
「頑固もの偏屈ものの神宮寺」で通し?、神様も仏様も仲良く並んでいらっしゃる。
お寺の入り口に、注連縄!
お堂の中で、柏手OK!
ええ加減な日本の王道をゆくお寺です。
でも、それが信仰じゃないのかな。
儲ける側も、取られる側も、
どうせなら一つの場所でお得に。
いやいや、そういう現世的なことを言えばそうですが、
一神教じゃないということは、そういうことなのかと。

探偵ナイトスクープあたりで、
閼伽井戸から流した水は、どこへ辿り着くか、
というのをやってほしいです(^-^)





【2008/11/19 22:12】 | ディープ近畿(上記以外) | トラックバック(0) | コメント(7) | page top↑
くりかえすもの
11月の中旬は、
私にとって、積年のうれしいこと、かなしいことのいっぱい詰まった時期だ。
一年は365日もあるのに、
どうして、この季節、とくにこの一週間前後だけに、
いろんな出来事が積みあがっていくのだろうとつくづく思う。

そのあまりの因縁の深さに、
ちょっと呆然としつつ、
牛乳が賞味期限切れになっていたので、
「あ、牛乳風呂にしようかな♪」
とか思っている私は、
かなり間が抜けている、と思う。

信仰、という言葉が浮かんでいる。
なにかにすがれる人々を
憧れの気持ちと、その反対の優越感の気持ちと、
両方からみていたはずだった。
でも、いつからか、朝の通勤ルートは少々遠回りながら、
お地蔵さま4箇所「横目」ルート。
立ち止まらないけど、横目でちらっと見ながら、
こころの中で祈ってる。

宗教とか、信仰とか、じゃなくて、
もっと自然なもの。
何に向かって私は祈っているのだろう。

wakasahimejinjya.jpg




【2008/11/17 23:30】 | 日々雑記 | トラックバック(0) | コメント(4) | page top↑
涼しき鈴の
小学校の校歌を今でも覚えている。

春は桜の花吹雪
秋は紅葉の唐錦
清き学び舎八田荘(はったしょう)
共に学ばん この丘に

堺の南 鈴の森(杜?)
涼しき鈴の音(ね)のほとり
…以下同 (笑)

今にして思えば典型的な七五調!
私の韻律はこのあたりから操作されていたか。
この思いっきりスタンダードな歌詞が、
なぜかいまだに心に沁みてくる。

(以下、正確な情報じゃなくて、ジモティー情報なので、適当に聞き流して?ください^-^;)
鈴の杜というのは、蜂田神社のことで、
小学校のまん前にある。
行基の母の実家の蜂田連に関連のある神社で、
蜂田神社といっても、村ではたぶん通じない。
村の人は普通「お鈴の宮」という。
町内には華林寺(けいりんじ)という行基の母の菩提寺がある
(これは夏休みのラジオ体操の場所)。
だから、小さいころは行基は世の中で一番偉い人だ、
くらいに教えられた。
(ほんまかどうかはしりません)

この鈴の杜・蜂田神社には、「鈴占」というのがあって、
神社内の良質の粘土を使って毎年節分の夜から立春にかけて、
鈴占神事がある。
夜、この鈴をもらいにいったような記憶があるが、定かではない。
私が小学生のころ、坂の下の「ねり山」を開拓して、
公団の団地が造成された。
が、途中で「ねり山」に渡来人の古墳がたくさんみつかって、
しばらく、工事ができなかったように思う。
東に数キロ行ったところには、「土師町」(はぜちょう)という町があって、
これはもちろん土師氏と関係があるだろうし、
須恵器はもうちょっと南の今の泉北ニュータウンのあたりで作られた。

ちなみに蜂田神社本殿は、私が小学生のころ、不審火で全焼した。
当時荒れていた中学校の生徒が神社の裏でタバコを吸っていたのが原因だと、
まことしやかに噂されていたが、真相は不明。
真っ黒な柱だけになった神社の、すすけた匂いを今でも覚えている。

そして、私が生まれ育ったところは、
蜂田神社のすぐ近くだったが、
おじいちゃんの畑の横には、掘ればレンガが出てくる子どもには宝物のような場所があった。
おじいちゃんはそこを「レンガ場(ば)」と呼んでいて、
昔は、レンガ工場があったんや、とか言っていた。
確かに畑にはつるべ井戸があって、
数メートル下まで続く丸い穴は、レンガで囲まれていた。
つるべ井戸は、高校生になっても、怖いものの一つだった。


渡来人・土師氏・鈴・レンガ場・ネリ山・・・
小高くなった場所から、石津川を眺めるのにちょうどよい場所で、
百舌鳥古墳群からも近い。
良質の粘土が採れるとくれば、開拓するにはもってこいの場所だったのかもしれない。

鈴は、魂のかたちをして、
涼しき音を鳴らす。

本居宣長も、鈴を近くに置いて、眠くなると鈴を鳴らしたので、
その勉強部屋を「鈴の屋」と言ったらしいし。

鈴は、魂のかたちをして、
主体とベクトルがどういう関係であれ、ここに居ますよ、という合図のための道具。
かたち、というのも、 「型・形(かた)」+「霊(ち)」というし・・・
(先生のウケウリ・・・なのかどうかもアヤシイ記憶)。

その形、音のヨシアシで、何事かを占う、というのは、
占いのかなり根源的な方法じゃないんだろうか。
器があり、音がある、という点では、
短歌(もちろん古代の)も、かなりコトダマ占い的なものがあったのでは、
と、、、

このあたりから、「のる」「たま」の妄想話のはじまりはじまり・・・






【2008/11/17 01:50】 | 日々雑記 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
ケジメのつけかた
去年の春に「短歌人会」に入会するとき、
WEBでのハンドルネーム「禰子」で通そうかと思っていたとき、
NS師匠に相談したら、
「たとえ趣味としてでも長く短歌を作り、
あるいは歌集一冊も作ろうかという場合、
姓・名の形のほうが違和感は少ない」
と助言をいただいた。

それで、私が真っ先にしたことは、
次の日に郵便局に行き、
「勺 禰子」 でも郵便物が届くための手続きだった。

えーと、時々、私のことを
「変わったお名前ですね」と言ってくれる人がいますが、
もちろん筆名です(笑)。

しかし。
月日は流れ(っちゅーほどでもないが)、
いつの間にか、気持ちにも体にもぴたっとしてきたこの名前。
名前というのはラベル。
でも、ラベルというより、「名乗り」を思い出す。
そして、先日の万葉集の
「のる」を思い出す。。

「のる」 の語源は、学生時代からなんか因縁がありそうなので、
ぼちぼちと。

今日は、私のケジメのつけ方に対する一考察、ということで。


【2008/11/12 23:34】 | 日々雑記 | トラックバック(0) | コメント(4) | page top↑
寒い日は
大阪だからとアナドッテイタ。

11月になったということをほとんど意識していなかった。

風通しのいい家だというのに
   もうちょっとしてからでええやろと思っていた。

あ~寒むっ。

おいどはホットカーペットおざぶ型によりぬくぬくだが、手が凍傷気味(嘘)。
でも、嘘、ってほどでもないなぁ・・・
ほんまに寒いなぁ。
ネットで注文したパネルヒーター、早よ来ーーーい。

洗い物するのに2時間も躊躇している間に、
どんどん外気温度は下がってきてる(当たり前)。
お風呂に入らないと(暖まらないと)洗い物する気になんないし、
暖まったら洗い物する気にならないし、
どうするべぇ。
お風呂に二回入ったらいいのかなぁとアホなことを真剣に考えてみる。
(暖まってから洗い物して、冷えるからも一度入る!)
うーん、どうしようかな。
(寒くてちょっと壊れてます)
とりあえず、お風呂に入ってから考えよう。


【2008/11/10 22:17】 | 日々雑記 | トラックバック(0) | コメント(8) | page top↑
静かに受け容れる
20年来の高校のなかよし5人組と、久しぶりの食事。
(年がばれますが、プロフィールでわかっているので、まぁ)
2人で、とか、4人で、とかは時々会っていたが、
5人全員で集まるのはHが出産して以来2年3ヶ月ぶり。
その間に、それぞれに、決して小さくないさまざまなことがあった。
すべてを説明するにはその情報は膨大にすぎ、
話すほうも聴くほうもあまり意味がない。
それぞれが、最低限のことを言えばおおよその察しはつく。
わからないことをすべて言葉で説明することは不可能だ。

わからないなりに静かに受け容れる。
または、わからないということを静かに受け容れる。

それは友人でも、男女でも、親子でも、
大切なことだと思う。
そこから見えてくるものがあるから。

おばあちゃんになっても、
時々はケーキを食べながらおしゃべりしたい。
「昔はこんなんぺろっと食べたのになぁ」 とか言いながら。
(すでに今日もぺろっと食べられらなかったけどね ^-^;;)
【2008/11/10 00:10】 | 日々雑記 | トラックバック(0) | コメント(10) | page top↑
馬のたましひ冱ゆるまで
馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ  塚本邦雄

先日、獄中歌に少し触れてから、
なんとなくこの歌を思い出している。
これは観念で作り上げた歌で、馬のたましい冴えるまで馬を洗うこともなければ、
人を殺めるまで人を恋うことがなくても、歌は出来上がる。
それでも、この歌がぬぅっと心の中に入ってくるのは、
作者と作中主体が完全一体ではなくても、
歌というものが完成しているときには、何かがむくりと起き上がるからだし、
そこに創作が創作を超える一点があって、現実世界に侵入してくるからだ。

獄中歌はその対極でありながら、
これまた心の中にぬるりと差し込んでくる。
獄中歌人本人の人生と、その短歌も、当然ながら別々の道も歩むわけだし、
あくまで作品は作品、という点においては、
塚本邦雄と変わるところはないのかもしれないが、
創作意欲の根源という意味ではやっぱり対極。
バーチャルに罪を犯してゆく方向と、
リアルな罪から罪を償う方向と、、、

でも、なぜか似ているところがあると思ってしまうのだ。
ぐるっと別方向からまわってきて同じ暗渠に落ちついたような、
そんな心もちになる。
同じ軌道を別方向に回っているだけのような。
でも、その方向の違いが現実世界では決定的差異であるのだが。

某師匠に「もうすこし元気を!!」と言われたばっかりなのに、
書き出したらやっぱりなんとなくまたディープな話になってしまった。
ぼちぼちです。

女をば連想しつつ人形の赤ききものにふれゆくおそれ  長光良祐

【2008/11/07 22:11】 | 日々雑記 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
荒地の恋
2008年が始まってまもない1月の終わりに届いた「短歌人」2月号に、
「相聞の風」という有沢蛍さんの時評が載っていた。
ねじめ正一の 『荒地の恋』 について簡単な紹介があって、
amazonですぐに手に入れた。
荒地」というのは、戦後をリードした詩人グループの同人誌。
小説のあらすじだけを書くと、なんだか興味本位のゴシップみたいになるので、
書きかけてやめてしまった・・・。
後半登場する、阿子という年の離れた女性が、
主人公北村太郎のいつしか心の支えになってゆくあたりが、
淡々としながらいつの間にか読者の(わたしの?)こころの中にまで入ってきて、
久しぶりに小説を読んだような気がした。

あれは冬の終わりで、
もう、ぐるっとまわって冬の初めに入りかけているけれど、
今日、たまたま見つけた古本屋で、
荒地のメンバーの田村隆一の詩集と鮎川信夫の評論集が、
おなじ棚になかよく並んでいたので、つい買ってしまった。
詩も読みなさい、という思し召しかな。

himeji.jpg

【2008/11/05 22:58】 | 日々雑記 | トラックバック(0) | コメント(4) | page top↑
平成20年・題詠100首百人一首
096:複
(勺 禰子) 複写用カーボンをまだ使ってる職場に絶滅危惧種の多し


先日初参加にて初完走した題詠ブログ。
それをたんねんに読まれて、選歌をされている西中眞二郎さんのブログで
平成20年・題詠100首百人一首の中に一首入れていただきました。
人の歌を読む、ということは本当に大変だけれど、とても重要なこと。
WEB歌会は最近参加しだして、参加するのが精一杯で、
コメントする気力と時間がない。(主に気力に問題あり)
詠むよりも読むほうが、何倍もエネルギーがいる。
このブログでも、ちょっとずつでもいいから、いい歌を紹介したいと思うけど、
なかなか・・・(^-^;

ちなみに絶滅危惧種はやはり、大切にしないといけないんじゃないか。
そんな風にも思いますが、何事もバランスが難しいですね。


右派なのか左派なのかなどいざ知らず両手に載せて物売る少女
右派なのか左派なのかなどいざ知らず不知火町に秋の花火師
                                   西王 燦
【2008/11/05 00:47】 | 「題詠blog2008」 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
嵯峨野歌会
公園でお弁当食べるまた今日もとことこと来るアルビノの鳩  禰子


短歌人の関西歌会は基本は大阪、春は奈良、秋は京都。
昨年の京都は諸般の事情により参加できなかったので、
京都は初参加。
秋の京都は人を見物しに行くようなもので、ちょっと閉口。。。
arashiyama.jpg
渡月橋、落ちるで、、、と思いながら渡る。
せっかくカメラを持っていったのに、撮る気もなんだか失せてしまい、
路地に入ったところの古びた酒屋さんや、苔むした用水路なんかも、
いいなぁ、と思いつつ撮ろかな、と思うと人がたくさん歩いてきたりして、
結局こんな写真しか撮ってこなかった・・・あー!

今日の歌は、某WEB歌会にて「オノマトペを入れて詠む」という題にて出詠したもの。
「お弁当」と「とことこ」で「たのしい感じ」の歌だと思った人が何人かいらした。
「たのしい感じ」と捉えた人は、「アルビノの鳩」が下句にくるのが違和感があると。
「たのしい派」と「かなしい派」がそれぞれいらして、
「かなしい派」の中には「アルビノの鳩」に「みにくいアヒルの子」をかけて、
それを作者の分身とも読み込んでくださる方がいたりして・・・(^-^;
どんな風に読まれたとしても、三十一文字でそれを言った自分の責任だから、
言い訳はしない のが作者としての身上。

研究会はK本氏による「獄中歌を読む」
死刑囚だから、という背景がなくても、いい歌はいい。
昔は獄中歌人というのがたくさんいたようだ。
明日、死刑を言い渡されるかどうかというところで詠む歌は、
考えてみれば詠み始めてから詠み終わるまで、
延々と辞世だ。
昔は前日に執行が言い渡されたそうだが、今は当日に言い渡されるそうだ。
本当の最後の辞世を何首か詠む、というのも今ではもうかなわないのだろう。


雨の灯に憶ふことみな優しくて詫びて済まぬ身を詫びつつ更けぬ  島秋人

女をば連想しつつ人形の赤ききものにふれゆくおそれ  長光良祐

女らしさの総括を問い問い詰めて「死にたくない」と叫ばしめたり  坂口弘

老被告理髪待つ間のまみ細め罪なき如く耳かきてをり  島秋人


獄中歌はある意味美しい。
だけど、獄中歌で辞世を詠むことのできた人たちのために、
突然生を中断させられた人たちは、辞世もないままにへし折られたのだ。
そこはやっぱり忘れてはいけないだろう。どんなに作品至上主義であっても。

【2008/11/02 23:05】 | 歌会・その他短歌 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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