2011年3月11日のこと
昨日2012年の3月10日は、短歌人会の小島熱子さんの歌集
「りんご1/2個」の批評会のために東京は中野へ出かけた。
3月11日、今日に日付が変わるころは、
東京のどこかの道を夜行バスで走っていた。
今朝、難波について帰宅して、
ごはんを食べてから14時半ごろまで寝てしまった。

起きて、顔を洗って、
14時46分、
北東に向かって1分間、黙祷。

この1年、震災にかんする歌はまったく(2首ほど関連はあったが)、
結局詠めなかった。

あまりに距離が離れていたということと、
自分自身のいろいろなめまぐるしさにかまけて、
寄り添えていない自分が、
震災にかんして詠めるはずもなかった。

それとは別に、
ちょっとした心のわだかまりもあった。
備忘録の域をでないので、
ブログにアップするようなことでもないのですが
無自覚であった自分の記録として下記しておきます。

2011年3月11日の地震発生当時、
大阪の某メーカー本社2階で打ち合わせをしていた。
なんだかみしっと音がして、
それから地面がゆらゆらしているような気がして、
窓のサンシェイドがゆれているので、
「地震じゃないでしょうか?」
と、同席していた上司と先方の2人に告げるも、
「風でしょう」とスルーされた。
私は、芸予地震のときの気持ち悪さと似ていたので、
「これはかなり遠くでかなり大きな地震があったに違いない」
とは思ったが、そこで騒いでも仕方ないので、黙っていた。

打ち合わせの後、1階からのぼってきた、
廊下の途中にあったはずの階段がみあたらない。
「防火シャッターが降りたんだ」
と思うが、他2名はまったく気が付ず、
「あれ、どこからのぼってきたっけ」とか言って
結局別の階段を見つけておりたので、
防火シャッターのことは黙っていた。
(私見だがそういう「余計なこと」を言わせない雰囲気が上司にはある)
帰路、いてもたってもいられなくなり、
「ちょっと失礼します」と携帯でニュースを検索。
津波はまだだったが、大地震があったことはわかった。
上司に伝えるも反応はいまいち。話題を変えた。

その日は金曜日、
先ほど打合せをした客先の方と、
夕方、再度待ち合わせをして宴席の予定だった。
全国区の住まいに関わる仕事のため、
「今日は無理なんじゃないでしょうか」
と、上司に言ってみるも、
「大阪なんだし、大丈夫じゃないの」という。

結局、先方は情報収集やHPの更新など大変だったようだが、
仕事を切り上げて、宴席に来てくれた。。。
宴席の途中もトイレで携帯のニュースを見て、
気になって仕方なかったが、終わったのが23時…。
疲れ果てて帰る。
そしてはっきりと惨状を知る。

やはり私はもう少し強く、
その日の宴席はキャンセルにするべきですと
言うべきだったと今では思う。
「余計なこと」だったとしても。
その後全国を吹き荒れた「自粛」とは全く違う、
その日、その時、そんなことをしている場合ではなかった、
という意味で。

翌土曜日から38℃の熱が出て、
結局日曜日もずっと臥せっていた。
出勤記録を見ると、月曜日にはちゃんと出勤している。
なぜあんなに熱が出たのかは、いまだに不明。

そんな1年前を思い出しながら、
「言うべきだった」と思うくらいしか能がないのだが、
たとえ直接支援という形ではないにせよ、
震災から得た情報をまとめて
自分の身の回りを守ることくらいはきちんとしなければ。

相変わらずの状態ではあるが、
せめてそのていたらくさを
しっかり振り返ること、
そして、自分の立ち位置で、
できることを考えてみる、ことは続けていきたい。
【2012/03/11 23:56】 | 日々雑記 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
生駒あるくみるきく【1】 目立て屋さんの半世紀
お正月明けから、奈良新聞で毎月第1金曜日朝刊に掲載される
「なら民俗通信」で、「生駒あるくみるきく」を書かせてもらうことになりました。
「なら民俗通信」は連載回数200回以上の長寿コーナー。
民俗学や歴史学の先生や、行政、寺社、まちづくりなどの立場から、
いろんな人が奈良について書かれてきたこの欄に、
勺禰子、202回目からの登場です。
こういうの、なんて言うのでしょ(^-^;
歌詠む人ちうのは初めてかな、たぶん。

明日は第2回目が掲載されます。
奈良新聞は奈良県内の近鉄の主要駅で販売されているほか、
(ただし、はしっこの自販機にひっそり置かれている場合アリ、要注意!)
大阪では、近鉄難波駅・上本町駅の売店でも売っているそうです(Wikipedia談)。

売店で缶コーヒーを買うまえに奈良新聞を見つけてしまったあなた、
握りしめたその120円を、思い切って奈良新聞に使ってみませう(笑)。
そう、缶コーヒーと同じ値段です(尾崎豊の時代とは違うのさ)。

というわけで、今回は1月6日(金)掲載された
「目立て屋さんの半世紀」をアップします。
今後2か月に1度のペースで連載です(たぶん 汗)。
ご愛読のほど、よろしくお願いします!

民俗通信202 宮野刃物店 宮野さん

△ikoma-aruku・miru・kiku----------------------------------
   生駒あるくみるきく【1】 目立て屋さんの半世紀  勺 禰子
----------------------------------------------sasabune△

■一本の道
近鉄生駒駅を出ると、雑居ビルのすぐ向こうに、
山肌の感触も間近な生駒山を眺めることができる。
万葉集にも多く詠まれたいにしえの山は、
東京スカイツリーより8メートル高い標高642メートル。
屏風を立てたように見える大阪側からの姿や、
東生駒辺りから見える雄大な姿とも違った、
力強さと親しみの混じった景色だ。
その麓には「参道筋」と呼ばれる一本の道がある。
この道が整備され出したのは今から98年前の大正3年。
大阪電気軌道(現近畿日本鉄道)が生駒山にトンネルを貫通させて
大阪上本町と奈良を結び、生駒駅が設置された年だ。
大阪方面から聖天信仰で有名な宝山寺へ押し寄せる人たちの参詣道として、
1.5キロメートルの坂道はあっという間に発展を遂げることになる。
生駒駅前から生駒山中腹にある宝山寺へと続いている
参道筋を中心にあるきながら、
人のくらしと土地のつながりを、みたり、きいたりしていきたい。

■暗峠と大工さん
参道筋を入ってすぐの本町で刃物店を営む宮野勇さん(72)が、
今ではすっかり珍しくなった鋸目立て(のこぎりめたて)や
刃物研ぎの店をこの場所に構えたのは、50年前の昭和37年。
播州三木の両刃鋸の鍛冶師の家に生まれた宮野さんが、
誰一人知る人もいなかった奈良の地にやってきたのは、
暗峠(くらがりとうげ)と大工さんのご縁による。
瓢箪山の商店街で同じく刃物店を営んでいた義兄から、
「大和の大工さんはみんな暗峠を越えて瓢箪山まで目立てに来る。
誰か生駒に店を出してくれる人はおらんか、としょっちゅう頼まれる」
と言われ、修行先の広島から生駒へ来ることにした。
当時南生駒あたりから瓢箪山方面へ行くには、峠が近道だったという。
最初のトンネルが開通して半世紀を経てもなお、
峠道が生活路として生き続けていたことがわかって興味深い。

■生駒の目立て屋さん
鋸のギザギザの目(アサリ)は交互に外側に反っているが、
使っているうちにだんだんすぼまって切れが悪くなる。
この目を互い違いに開けなおし(アサリの目あけ)、
全体の歪み(ヒズミ)を取り、ヤスリで切れ味よく仕上げることを目立てという。
アサリの目あけやヒズミを取る作業は、50年前に三木から提げてきた
金床(かなとこ)という鉄の塊の上で行う。
各作業にあわせて使い分ける鎚の、カンカンカンと澄んだ小気味よい音が響く。
その後「鋸挟み」で刃を固定し、開け直したアサリをウラ・オモテ一つ飛ばしに
素早くヤスリで仕上げる。
宮野さんは年代物の金床を大切に使いながら、
「三木から大阪環状線に乗り換えるとき、金床が重いんで
階段を上り下りするのが大変やった」と教えてくれた。
かつては大工も多く、特に冬はたくさん木を伐るので、
板の間にうずたかく積まれた鋸を前にあぐらで座り、
朝からひたすら目立てをした。
「おん祭りに行ってくるから、その間に仕上げといて」と言って
鋸を預けて行く人もいた。昔はどこへ行っても、名前ではなく、
「生駒の目立て屋さん」と呼びかけられたという。
大工が減ったことや、鋸がいよいよ使い捨てられるようになってからは、
家庭用の包丁研ぎの仕事が多い。
近頃では包丁を研いでくれる店も珍しくなった。
「インターネットで調べてくる人もおるんや…」
と、宮野さんが言いかけたとき、店の扉が開いた。
「すみません、包丁研いでもらえますか?」。
日々変わるのが道の本質なら、ここにつながる道は
インターネット上にも伸び始めているのだろう。

■語りのちから
「昔は昼間に、向かいの置屋さんから三味線の稽古の音が聴こえてきて
風情ありましたな。ここは花見小路言うて駅からずーっと桜の木が植わって、
日本髪結うた芸妓さんが歩いて、そら綺麗やった」
この参道筋には、花街というもう一つの顔があった。
今では住宅が立ち並ぶこの道に、高度成長期頃まではたくさんの
置屋、料理屋、検番などが、駅前から宝山寺まで軒を連ねていた。
カンカンカンという宮野さんの目立ての澄んだ音を聞いているうちに、
三味線の音と目立ての音が両脇から聞こえてくる昼下がりの花見小路が、
自分の記憶のどこかにしまわれていた光景のような錯覚に陥った。
直接語ってもらうということは、
どんなに正確な記録よりも、
どんなに立派な映像よりも、
人から人へ記憶を伝える良質の再生装置のように思えるから不思議だ。

(しゃく・ねこ 歌人、ささぶね編集工房) 奈良新聞2012年1月6日掲載
【2012/03/01 23:15】 | なら民俗通信 & 記事 | トラックバック(0) | コメント(3) | page top↑
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