短歌人 2013年2月号
そのかみの杉浦日向子の死を知らず吾の十年(ととせ)の波瀾にあれば

僻(へき)の濃き夫婦なりしか日向子氏と荒俣氏との不協和を思(も)ふ

東京を幻視するとき見たといふ安治の絵には夜の灯多し ※

「宵越しの金は持てない」大火にて常に焼き払はれる江戸とは

南都にはあらぬ生駒の稜線に大火なく即ちリセットもなく

小角(おづぬ)以来の土の上(へ)に建つテレビ塔群を冠して生駒山立つ

上書きをしていけばいい 君の言ふことは正しい焼き払へぬのだから

消えもせず誰も歩かぬ元参道焼き払はれぬ堆(うづたか)さもて

                    勺 禰子(しゃく・ねこ)

井上安治
【2013/01/27 23:55】 | 短歌人誌 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
生駒あるくみるきく【6】 生駒大師堂を巡る人々
長らくアップしておりませんでした(^-^:
その2ですm(_ _)m
奈良新聞の毎月第1金曜日に掲載されている「なら民俗通信」
今週金曜日に【7】が掲載予定ですので、そちらの方は是非
お近くの主に近鉄主要駅売店(新聞自販機)←お近くに限りますが(^-^;
にてお買い求めくださいm(_ _)m

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 生駒あるくみるきく【6】 生駒大師堂を巡る人々  勺 禰子
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建替え前の生駒大師堂(2011年5月29日撮影)
建替え前の生駒大師堂(2011年5月29日撮影)

■榁木峠と参道筋
生駒駅の南にのびる宝山寺参道筋の急な坂道を5分程上って行くと、矢田丘陵を一望できる見晴らしのよい交差点に出る。参道筋沿いに階段をのぼれば聖天さんのいる宝山寺へ、南に進めば鬼取・暗峠(くらがりとうげ)へ、「ソーレン道」と呼ばれた尾根づたいの道を西に進めば壱分(いちぶ)の往馬大社に通じる分岐点だ。計6つに分かれた交差点には「榁木大師近」と書かれた石碑がつい先月まで残っていた。矢田丘陵と暗越奈良街道の交点にある榁木峠(むろのきとうげ)は、この交差点からは5キロほど離れた大和郡山市矢田町にあるが、この場所から峠を眺めた昔の旅人には、近く感じられたことだろう。

■生駒大師堂
この交差点を駅に少し戻ったところには、9月末まで写真のような生駒大師堂が建っていた。地元の年配の人に聞いても、「子どもの頃にはもうだいぶ年季はいっとったなあ」という建物は、かつては参道筋に並んだ旅館に、今ではマンションに囲まれ、老朽化のために波打った瓦屋根はまるで、そこだけ時間が止まってしまったかのような雰囲気を漂わせていた。それでもいつも花が手向けられ、町の老人会・婦人会・子ども会の人たちの手で、軒先にあるお地蔵さまとそろって、きれいに掃き清められていた。しかし雨漏りや耐震性、崩れた外壁の美観など、改修は難しく、建替えが決まった。安置されていたお大師さま・お不動さま・観音さまは運び出され、10月初めから取り壊しが始まった。

■生駒大師講
大師講とは、関西では弘法大師・空海を、オダイシサンとして信仰する講組織を指すことが多い。
生駒市山崎新町に住む山上明子さん(79)は、大阪の心斎橋から嫁いできた昭和31年に、この大師堂を拠点とする生駒大師講に入った。「昔はようけ居てはったんですよ。みんなで御詠歌あげて、鉦鳴らしてねえ」。明子さんが知っている中で一番多いときは30人ほどいたという講中は、大師堂のある山崎新町だけでなく、元町や本町など参道筋の、主に商売をしている人たちで構成されていたという。近年高齢化により休眠、事実上自然消滅してしまった生駒大師講だが、明子さんは責任者として、毎朝お大師さまにお経をあげてきた。
大師堂が建てられた時期は不明だが、「戦前よりもっと前やろうけど、大師堂の後ろは牛小屋やったときいたことあるわ」と教えてくれた。町の年配の方々に記憶を辿ってもらうと、床下には葬儀道具や櫓(やぐら)、正月飾りなど、町で使う道具もしまわれていたという。大師堂は町全体の公民館のような役割もはたしていたのかもしれない。

■新しい大師堂
取り壊される前の生駒大師堂の入口には、「北和八十八ヶ所第二十二番霊場/榁木山弘法大師賢聖院/分院生駒大師堂」の札が掛けられていた。冒頭の石碑に刻まれた榁木峠にある榁木大師のある寺院のことだ。
真新しい角材が着々と空に向かって立てられていく建築現場に、11月19日、上棟式を執り行いに来られた賢聖院(けんじょういん)の網干聖住職(63)によると、「生駒大師堂がうちに寄進されたのは昭和55年で、それより昔のことは先代が亡くなったこともあり詳しくはわかりません。けれど灯籠を寄進してくれたり、古くから熱心にお大師さまを信仰しておられたようです」。奥さんの敦子さんも、「講の方がまだたくさんいらした頃は、みんなでお参りに来られてにぎやかでしたよ」と振り返る。かつてのような講組織がなくなり、分院の大師堂を建替えるには大きな負担がかかるが、2人とも「生駒のお大師さまをなくすわけにはいかない」と考えている。新しい大師堂は新年早々にも完成の予定だ。

■参道筋に息づく大師信仰
明子さんは講がなくなってからも、生駒大師堂への日々のお参りと共に、定期的に四国八十八ヶ所巡りをしてお大師さまへの信仰を続けている。
「宝山寺さんの中にもお大師さんがいっぱい居てはりますやろ。若いころは22年間休みなしで毎日、早朝に通いましてん。参道筋の階段をたーっと上ってお参りして、下りてきてちょうど1時間。お大師さんいう人はあちこち回って、洞窟にも入りはってものすごい大修行をしてはるでしょ。せやからご利益も大きいんですわ」。明子さんが語る弘法大師への尊敬の念は、千年も前の人にではなく、見知った人に抱くような親近感を伴っているように思える。奈良県内はもとより、今もさまざまな形で全国に残るオダイシサンへの信仰心は、そのような親近感から生まれるのかもしれない。
百年前に出来たばかりの新しい道に集ってきた人々の中に、聖天さんや氏神である往馬大社への信仰だけでなく、弘法大師信仰がしっかりと根付いていたことは、くらしと信仰を思うとき、興味深い。

(しゃく・ねこ 歌人、ささぶね編集工房)奈良新聞2012年12月7日掲載
【2013/01/27 23:51】 | なら民俗通信 & 記事 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
生駒あるくみるきく【5】 門前町に生きる
長らくアップしておりませんでした(^-^:
奈良新聞の毎月第1金曜日に掲載されている「なら民俗通信」
今週金曜日に【7】が掲載予定です。

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 生駒あるくみるきく【5】 門前町に生きる  勺 禰子
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昭和30年頃の門前町のにぎわい(生駒市提供)
昭和30年頃の門前町のにぎわい(生駒市提供)

■夕焼け小焼け 
「大阪では長屋ぐらしでしたけど、お父さんは尺八、お母さんは大正琴やピアノができましてん。よく弟妹や近所の子ども15人ほど集めて、『夕焼け小焼け』や『靴が鳴る』をみんなと一緒に歌とてくれました」
生駒市門前町の料理旅館「天満屋」に、今はひとりで暮らす谷内ヨシ子さん(86)は、楽しかった幼い頃の記憶を丁寧にひもといてくれた。「菜畑出身のお父さんは、『ヨシ子、月が出てくるあの山の向こうがお父さんの里や』言うて、生駒山の方を懐かしそうに見ることが多かったです」。

■別れ 
ヨシ子さんは、11歳で母を、12歳で父を病で相次いで亡くした。母も幼い頃両親を亡くし、九州から大阪の裕福な親戚へもらわれて大切に育てられた。大きな農家で不自由なく育った父は、連帯保証人になって傾いた生家を離れ、腕のいい貝ボタン職人となって母と出会う。女学校まで出した養女の思いがけない結婚に父は反対し、勘当された2人は長屋でくらした。それでも快活だった母は、34歳のとき4人の子どもを残し、腎臓炎であっけなくこの世を去る。翌年、父も44歳で病にたおれた。すぐ下の弟は奉公に、妹は父の知人にもらわれた。幼い末弟と共に、子どものいない叔母夫婦にもらわれることになった長女のヨシ子さんは、昭和13年、父がいつも眺めていた生駒山を越えて門前町にやってきた。

■天満屋でのくらし 
門前町は宝山寺への参詣者や宴会客で賑わっていた。ケーブル線宝山寺駅前で草もち屋をしていた育ての父・谷内丑太郎さん(故人)は、2人を引き取った翌年の昭和14年4月、売りに出されていた「天満屋」を買って旅館業を始めた。父母を亡くし、弟妹のため奉公に行って学校が途中になっていたヨシ子さんを気遣って、養父母は裁縫学校にも入れてくれた。
ある日、宴会の配膳の手伝いをしていたヨシ子さんに「君か!元気にしてたんか!」と、抱きつかんばかりに手を握ってきた男性がいた。小学校のときの担任の先生だった。「最初はわからんでびっくりしたけどね、『私、いま幸せにくらしてます』て言うたら、先生は『よかったよかった』言うて、えらい泣いてはったよ」。

■映画館・海軍・終戦 
昭和16年末に太平洋戦争が始まるまで、華やかに栄えていた参道筋。生駒駅南に出来た映画館はいつも満員で、主に旅館の帳場を手伝っていたヨシ子さんもよく観に行った。「朝は時間あるし、芸妓さんも私もよう観に行きましてん。用事があると休憩中は『天満屋さん、帰ってください』てアナウンスが流れて、上映中はスクリーンの横に『早く帰ってください』と貼り紙されて。あれはかなんかったわぁ」と声を出して笑う。
「12月8日の開戦翌日から、カフェの音楽はみなピタッと止まるし電気は消さなあかんし。生駒は空襲はなかったけど、大阪が焼けたときは山の向こうから手紙やら紙屑やら、通帳まで燃えて降ってきて。あと、生駒山頂に海軍がきはりましてな。陸軍と違ごて海軍が山で訓練とは、こらいよいよアカンなぁて言い合いましたで。1年ほど休業して、戦後は昭和20年の末から商売し始めましたけど、そら忙しおましたで」。嫁入り道具にと揃えてもらった着物は米に変わり、酒やビールは大阪で商売している人に調達してもらった。

■笑って生きる 
高度成長期が過ぎると盛んだった宴会も次第に減り、かつて生駒の全生産額の3分の2を稼ぎ出したという生駒新地は、華やかさをなくしつつ、色町の様相を濃くしていった。「日曜日の心斎橋みたいやった」とみんなが口をそろえて言う賑わいはもうないが、現世利益やパワースポットとしての霊力を求めて、宝山寺やその周辺には今でもそれなりの人出がある。お茶屋を改造した地元野菜の料理や、エスニック料理の店ができるなど、新しい動きもある。
天満屋は2年前に廃業届を出し、70年以上の歴史に幕をおろした。3年前に不慮の事故で息子を亡くしたヨシ子さんは、「先のこと考えても生きていられへんから、笑って生きるだけですわ。まだまだがんばるよ」といい、店を切り盛りしているときから好きだった花の栽培や、なついている猫への餌やりを欠かさない。

■道の記憶 
鉄道開通と共に宝山寺新参道筋が出来て約一世紀、多くの人が商売のため、くらしのため、あるいは人生に翻弄されてこの道を往来した。大きな災害や都市計画さえなければ、道そのものの寿命は案外長い。年を重ねてきた道には、石段や丁石など目に見えるものだけでなく、まだ語られずにひっそりと抱き続けられた記憶も残されているだろう。そんな記憶をこれからもていねいに掬って刻み直したい、と思いながら晩夏の空を見上げると、この土地の来し方行く末を見守るかのように、般若窟がもこもこと、生駒の山肌からせり出していた。

(しゃく・ねこ 歌人、ささぶね編集工房)奈良新聞2012年9月7日掲載

【2013/01/27 23:36】 | なら民俗通信 & 記事 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
妻問婚
七草粥も終わってしまいましたが・・・
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

2013年のお正月は東へ行っては蕎麦や雑煮を食べ、
西へ行っては同窓会をしたりウン年ぶりに実家に泊まったり、
北へ行っては知らないおじいさんに案内されて小さな神社へ行ったり
している間に終わってしまいました
(あ、全部近畿も近畿、ご近所ばっかりですけど)。

ご近所とはいえ、通ったことのあるはずの新興住宅地の小さな階段を登れば
江戸時代の初めの頃からいらしたらしいお地蔵さまに出会ったりして。
お地蔵さまといっしょにならんで生駒山の方を眺めていると、
「なんか、ここずーっと前から知ってるわぁ」
という気分になってきたり(←あるいは単に妄想癖と呼ぶ)、
不思議なめぐりの中に今生きているということに気づいたりします。

とかなんとか。
去年は途切れがちだったエントリも、
少しずつ増やしていけたらと思います。

・・・
で、いろいろアップしてないままなんですが、
年2回参加させていただいている「舟」という冊子に
掲載していただいた歌をば、今年の初めに載せちまいます。

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「妻問婚」    勺 禰子(しゃく・ねこ)

大阪の夕日を海にしづめ終へさやうなら潮の遠鳴りを聴く

峠みち越ゆるは仮想 隧道(とんねる)を潜(くぐ)りて山の東に移る

その栄華忘れたやうな参道の玄関に吊るすキャットテール

西暦と和暦の自由は保障する薄くて茶色い婚姻届

①挙式なく②同居を始めたときもない、われらの犯す文書偽造罪

民法は同居の義務を強制はせぬが業平橋駅は消ゆ

君と古典基礎語辞典をめくりつつ端屋(つまや)にゐるをツマと知るなり

ツマとツミ双子のやうな語感持ち救ひ難かり循環(ループ)、人とは

後朝(きぬぎぬ)といふよりノチの朝とよぶここち。けだるきかたまりとして

十両の快速急行もろともに難波を目指す胎内潜り

朝の陽を一度たりとも浴びずある西の山肌、西へのびゆく

僧には僧の俗には俗の君と吾には君と吾とのあるべきやうわ

ハレとケのケがだんだんと多くなるくらしの中にハレは息づく

かにかくも生駒の山の龍穴にささぶね浮かべ風にしたがふ

宝山寺参道
生駒山と般若窟


【2013/01/08 22:46】 | 歌会・その他短歌 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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