短歌人 2013年10月号
「十人斬り」河内音頭に乗せながら新聞(しんもん)詠みは血のにおひ嗅ぐ

真夜の坂駆け上がりゆくもののけの叫びにも似て風のゆきすぐ

裏にしたカードはいつもにんげんが知らないうちに入れ替はります

各車両つなぐ蛇腹の気持ちなどたまに気遣ふラッシュの合間

荷姿に似つかわさない軽さもて吾にアマゾンより本が届く

程さんの炒飯よりも吾のため君が厨に生み出すチャーハン

                         勺 禰子(しゃく・ねこ)
【2013/09/29 22:35】 | 短歌人誌 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
「それは不感症を克服したのか」 短歌人2013.9月号 スピーチタイム〈5〉
短歌人の「スピーチタイム」に今年書かせてもらっている
「それは○○か」シリーズ?
やっと現在分まで追いつきました。
そして追いついてないのは私のあたま…

さて、どうなりますやら。
そして今回改めて気づいたのは、
「しちめんどくさい文体やな、シャク」
へえ、すんまへん。

第5回です。

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「それは不感症を克服したのか」

          勺 禰子(しゃく・ねこ)
          「短歌人」2013年9月号 スピーチタイム
     
7月号より)

「彫刻が物語りすぎる」ことを避けるために短歌を始めた高村光太郎。
もはや女社長の「たれ流し論」論破から遠く着地点を見失いつつあるSNだが、
短歌はなぜ物語りすぎる彫刻の救済となり得ず、詩はなり得たのか。
もう少しあがきたい。

高村とほぼ同世代の釈迢空(折口信夫)は、昭和二十四年に
日夏耿之介、神西清、三好達治との対談「日本詩歌の諸問題」
(『折口信夫対話集』安藤礼二編 講談社文芸文庫 二〇一三)で、
詩について興味深い見解を披露している。

たとえば「最近の詩の押韻」について釈(この座談会は釈名義で出席)は、

押韻に対して、切実な実感を持つ為には、ある時代の間、
押韻の不感症を見送る気でじっと堪えていねばならぬのです。
(略)数時代おしとおす忍耐力が必要で(略)
それを感じるようになるまで為通し(略)日本詩の事実とするのも、
確かに意味のあることです
」と述べている。

新たなプレイを静かに受容することで感度を上げてきたこの国の、
まっとうな感じ方、のようにも思えて妙に納得する。
釈はさらに外国語と古語について、

「日常使っている言葉ではなくて、現実世界には凡そ使わないでいて、
しかも生活にぴったり効果のある言葉」として同義
なのだとし、

あの古語の冷酷な表現力を考えるとたまりません」とうっとりする。

また「沖縄の巫女の古詞を奏する様を見ていると、
考えずに言葉がすらすら出て来る。(略)私の古語の詩は、
あの巫女がしゃべっているのと同じ
」とも。

要は相当な変質者なのであるが、なんとなくわかる(気がする)。
が、次の言葉でつまづいた。

歌というものは形の薄いものですから、歌を作っているものは生活が薄く、
表わす生活も薄いのですが、それを押し通すまでは(皆は)辛抱が出来ませんね

と言う。

千年の不感症を耐え抜き 辿り着いた境地は<薄い>のですか。釈先生。
【2013/09/06 12:57】 | 短歌人誌 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
「それは並列するのか」 短歌人2013.7月号 スピーチタイム〈4〉
短歌人の「スピーチタイム」に今年書かせてもらっている
「それは○○か」シリーズ?
3月からほったらかしておったのに、
なぜにこのタイミングで一挙アップかといえば
最終回を書きあぐねて今までの分を読み返していたから…。

当初は6回分筋書きがあって、
全部一気に書いてしまう勢いだったのですが、
書いているうちに曲がってきて…
戻れるのか、戻れないのか、まあ
大体そんな感じですよね、生まれてからずっと。

それでは第4回をば。

それにしても2か月おきやから忘れてると思って、
「興味深い」を連発しております(笑)。
普段なら極力同じ言葉は使わないのですが…。

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「それは並列するのか」

          勺 禰子(しゃく・ねこ)
          「短歌人」2013年7月号 スピーチタイム
     
5月号より)

女社長の二年前の暴言がきっかけとなり、SNの誇大妄想は膨らむ。

安吾の言う「詩魂(詩情)を持たない、型を知るだけの名人達人」にしても、
「名人達人」が芸術活動を阻む困った人々の代名詞に使われ、
そこに「型よりも詩情が大切に決まっているじゃないか」
という詩情至上主義が感じられる。とにかくまず詩情があり、
その依代(よりしろ)として短歌や詩が並列に存在している
という考えは、本当に正しいんだろうか。

短歌の最重要条件は「詩情」で、
それは「日記の垂れ流し」と相反するものなのか。

高村光太郎は「詩について語らず」で、興味深い告白をしている。
元来自分が詩を書くのは実にやむを得ない心的衝動で、
それは明治以来の詩の通念というものを殆ど踏みにじり、
詩の持つ特別な気圧層を無視している。
それは本来「音楽」にするべきものかもしれないが
自分はその技術を持ちえず、内部に充ちてくる
或る不可言の鬱積物を言語造型によって放電しているのだと言う。

光太郎は近代的彫刻家を目指す中で、
自分の彫刻が「物語り過ぎる」ことに悩んでいた。
言語(思想)を補足しないと理解してもらえないような彫刻は、
それ自体が一種の病だと考え(確かにそうだ)、
「この愚劣な彫刻の病気に気づいた私は、
その頃ついに短歌を書く事によって自分の彫刻を護ろうと思うに至った」。

その行為はちょっとずるい気もするが、これこそ
「(たぶん質のいい)日記の垂れ流し」であり、詩情の産みの母ではないか。
彼が彫刻を護るために避難する道具を、
短歌から詩に変えてゆく経緯を私は知らないが、
やむを得ぬ心的衝動を「音」で表したかった彫刻家・高村光太郎が、
短歌に過剰な意味を持たせることもまた病気だと思い、
最終的に近代詩にその任務を背負わせていたのなら、
彼にとって短歌は、
言語的ではなく不可言なものだったのかもしれない。

9月号へ)
【2013/09/06 12:41】 | 短歌人誌 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
「それは<詩>であるべきか」 短歌人2013.5月号 スピーチタイム〈3〉
短歌人の「スピーチタイム」に今年書かせてもらっている
「それは○○か」シリーズ?
2回目「それは芸術か」のあと勢い込んでアップです。

それでは第3回をば。

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「それは<詩>であるべきか」

          勺 禰子(しゃく・ねこ)
          「短歌人」2013年5月号 スピーチタイム
     
3月号より続く)

日本の短詩型について
「型を知るだけで詩の本質を解さず、
本当の詩魂をもたない、つまり芸術家ではない
俳人や歌人の名人達人諸先生がいるばかり」と憂いた安吾。

「短歌は仲良しクラブの日記の垂れ流し。
脚本は放送されるかどうかが全て。それがプロ。」という
脚本家志望(現在頓挫中)の女社長。

プロとは報酬を発生させることなのかどうかは今日は話題にしないが、
反論できるだけの材料をいまだ持ち合わせない私にも、
それは詠む側の問題であり、
短歌という韻律自体に罪はないのではないかとも思える。

ところで、「詩」とは一体なんなのだろう。
古代日本でそれは、漢詩だった。
近代になりそれは「ポエム」、ギリシャ語のポイエーシス、
技術(テクネー)を使った制作を意味するところの芸術だった。
漢詩を含む詩が技術的な制作物として出発したと仮定して、
短歌は声や音そのものを、呪術的、魂呼び的にしらしめよう
としたところから出発したのかもしれず、
その意味では技術を超越し、洗練し尽くし、
私を消し去った高みにあるはずの、
音自体をあらゆるものに刻みつける
儀式のようなものだったのかもしれず…。

枕詞を駆使しながら徐々に徐々にその世界にトランスさせていく
倭歌(やまとうた)であった短歌は、それが形骸化したときに、
他の詩型より「日記の垂れ流し的」になりやすいのではないか…。

そもそも「垂れ流しの質」が問われるべきなのであって、
「質のいい日記」や「質のいい垂れ流し」であれば、
それこそ短歌の身上ではないか。

いや大体、大量の日記の垂れ流しの中にこそ、人間の真実は眠るのだ。
そういう意味では短歌は「詩」である必要はないんだっ。

などと誇大妄想にうなされながら、だからこそ、
音のもつ力を裏切らないためにこそ、垂れ流すべきではないと、
なんだかわかったような気分になってきた。

7月号へ)
【2013/09/06 11:46】 | 短歌人誌 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
「それは芸術か」 短歌人2013.3月号 スピーチタイム〈2〉
またまたブログ更新までエネルギーが届いておらないシャクですm(_ _)m・・・

で、今までアップしていなかったものを、
順次アップしていきながら、
調子つけようかなという按配です(^-^;

短歌人の「スピーチタイム」に今年書かせてもらっている
「それは○○か」シリーズ?(勝手にシリーズ化しただけです)
1回目「それは自明か」のあとほったらかしになっておりました…。
連載は5回まで終わってあと1回。まとまるんか…まとめられるんか、シャク。。。

それでは第2回をば。

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「それは芸術か」
          勺 禰子(しゃく・ねこ)
          「短歌人」2013年3月号 スピーチタイム
     
1月号より続く)

老舗うどんすき店でチューハイをがぶがぶ飲みながら
短歌なんてただの〈日記の垂れ流し〉でしょっ」と叫んだ女社長
(老後は脚本家志望)の次の言葉が気になっていた。

「絵画や詩なら不遇のまま死んでも後世に再評価されるかもしれない。
でも同時代人に共感してもらえないような短歌が日の目を見ることは
未来永劫ありえないわよ」。

絵画は措くとして、詩が気になる。
なぜ詩は理解され短歌は理解されないのか。
そんな「思い込みの垂れ流し」には、
他の三人のように大人の微笑を返しておけばいいのか。

「二度とこの女社長に短歌の話はすまい。
そもそも、人はみんな全く違う要素でできた岩盤の上で暮らしていて、
岩盤と岩盤の間には相互理解を阻む深淵という無底の闇が広がっていると、
そのむかし哲学特殊講義で学んだではないか。
いや、相対主義を持ち出して納得している場合ではない。
なぜ詩はよくて歌はダメなのか。微笑んでる場合ではない」。

こてこてになった出汁を飲みながらSNは思う。
思いはしたがあれから二年。
こうして人はやり残したものを抱えて死んでいく…。が、
最近、坂口安吾の「第二芸術論について」に
興味深いヒントが書かれていることに気付いたのは天啓だった。

安吾は、作品の出来栄えを一流二流というのはわかるが、
詩形そのものを第二などと格付けるのはおかしく、
短歌も俳句も芸術であり詩なのだと言う。
しかし日本では、俳句だけを作る俳人、短歌だけを作る歌人、
「型を知るだけで詩の本質を解さず、本当の詩魂をもたない、
つまり芸術家ではない」俳人や歌人の名人達人諸先生がいるばかり
というだけの話なのだ
、と結んでいる。

「うどんすき事件」から安吾の文に触れ得たのは収穫だったが、
自明であるはずの三十一音の存在意義は…。

5月号へ続く)
【2013/09/06 10:52】 | 短歌人誌 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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