短歌人 2013年11月号
なまこ壁潜つて入るつきあたり明るく間引く中庭の竹

蛙股池の由来を三回目だらうか君にまた聞いてゐる

宋胡録(スワンカローク)のイントネーション試しつつ耳持つ青磁に脈がながれる

「やや奔放」と解説されて明代の青き魚は大皿に泳ぐ

庭園の日陰に入れば偵察隊ゐたかと思ふまで蚊が囲む

明代の青き二匹の魚のひれ学園前の夕空に消ゆ

                     勺 禰子(しゃく・ねこ)

大和文華館
【2013/10/27 23:52】 | 短歌人誌 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
生駒あるくみるきく【10】 参道の新たなにぎわい
ながらくアップしていなかった「生駒あるくみるきく」。
やっとこ追いついて2013年10月掲載分です。

このような連載を書くなんて、
正直自分でも思ってもみませんでした。
偶然が偶然を呼んだここ数年、
それらをしずかに辿ってみれば、
何となく偶然とは言い切れないつながりを持っていて、
私に何をすればいいのか教えてくれているような気がします。
そして、たくさんのうれしいつながりをいただいています。

残念なできごともあったのも事実です。
生駒市広報課の女性から、
非常に身勝手な方法で情報を聞き出され、
まさしく「恩を仇で返される」ようなこともありました。
この件についてはいずれきちんとした形にしたいと思いますが
そのほか感じた官民の問題をあわせ(官を燗としか変換しない我がPC 苦笑)
下記の一首として記憶しておきます。

「協働」といふ通り魔になぶられて市民としても書き手としても 禰子

とまれ、来年は奈良大阪が飛躍的に短時間で結ばれて100年、
生駒駅ができて宝山寺への新参道ができて100年です。
新たなにぎわいのために活動されている方がたくさんおられます。
いろんな形の応援の仕方があると思います。
私も引き続きこの道の来し方行く末を、
自分の自然なポジションから見守っていきたいと思います。

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 生駒あるくみるきく【10】 参道の新たなにぎわい  勺 禰子
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新参道
万燈会でにぎわう宝山寺参道筋。
今年は生駒駅から灯りがつながった。(2013年9月23日)


■参道に気づく
「生駒あるくみるきく」を書きはじめたきっかけは、一昨年の初夏にたまたまみつけた小さな道標だった。少しさびれた商店街から伸びる坂道に点在する道標は、下部分がコンクリートに埋まっていたり、電柱の陰にかくれてゴミの集積所になってしまって、お世辞にも大切に扱われていると思えなかったが、ここが何か重要な道だったと思わせるに十分だった。道の入口にある「いらっしゃいませ参道筋」という街灯と方角から、宝山寺へ続く参道とその丁石だろうことは予測できたが、生駒駅改札前の大きな案内地図には「参道」の「さ」の字も見当たらない。地元の人に尋ねると、「昔は芸妓さんがいて旅館がたくさんありました。そこのマンションも向かいの家も昔は旅館やったんですよ」という予想以上の答えが返ってきた。片鱗を探すと駅の南側ロータリーの真ん中にごく控えめに佇む「宝山寺 大鳥居跡」という石碑をみつけた。隣接するケーブル駅の名前が鳥居も無いのに「鳥居前」である理由がそれでやっとわかった。(大変残念なことにその後「二丁」の丁石は折れ、撤去された)。

■参道を調べる
生駒に土地勘のなかった私は、早速知人から「生駒市誌」を借りて読んでみた。それでこの道が大正3年の大軌(現近鉄)開通時に新しく敷設された宝山寺への「新参道」であること、参詣者やお茶屋遊びの人で大層賑わい、一時期はそれが生駒の主要産業であったことなどを知った。昭和57年の駅前開発の際に生駒山の中腹にある宝山寺惣門前に移設されるまで、大鳥居は生駒駅を降りるとまず目に入った「生駒のシンボル」だったに違いない。駅前の大鳥居を潜ることで、来訪者は宝山寺へ至る別世界に入る。それが徐々に様変わりしたのは、風営法の改正や高度成長期など時代の変遷だけでなく、生駒自身が大阪の通勤圏としてベッドタウンになることを望んだ結果に思えてならない。大鳥居がなくなってしまい、駅から続く参道は当初の使命を終えてしまったのだと思う。

■参道をあるくみるきく
それはともかく、まだ華やかだった参道を知る人は存命のはずだと気づき、その年の秋から参道筋にくらす人たちを訪ねて歩いた。
ほとんどが突然の訪問だったにもかかわらず、いろんな話をしてくださった。連載の一回目から順に、仕事をしていると芸妓たちの三味線の音色が聞こえてきたという宮野さん、参道が出来て間もなく創業した酒屋の楠下さん、半月も続く盆踊りなど普段のくらしぶりを教えてくれた阪本さん、100年前の生駒トンネル事故の犠牲者を今も手厚く祀っている姜住職、戦前から旅館を切り盛りしてきた谷内さん、生駒大師堂を守ってきた山上さん、地域の人に愛されるお地蔵さまとそれを守り続ける山崎新町の人々、新道の子として道の盛衰を見てきた芳野さん、代々道普請に参加してきた仲之町の人々のほか、見ず知らずの私に貴重な話を聞かせてくださったたくさんの方々。
参道に関する記憶は決して忘れ去られたわけではなく、語る機会のないまま一人一人のなかに眠っていただけなのだった。お話を伺いながら、それぞれの方々の人生がこの参道を媒体に、時間を超えたつながりを持っているという感覚を覚えた。

■地元でにぎわう新たな参道
今年8月の生駒市広報の巻頭は「あの頃の賑わいを再び」と題した宝山寺参道の特集だった。歴史や新しい取り組みを意欲的に紹介していたが、「あの頃の賑わいを再び」とは、参詣者だけでなくお茶屋、置屋、芸妓に旦那衆といった「あの頃の生業」の復活と奨励を意味する。確かに生駒を発展させた重要な文化の一つだが、市の広報誌が発信する今後の展望としては軽率と言わざるを得ない。
一方、「宝山寺参道新たな賑わい活性化プロジェクト」等、参道の「新たな賑わい」への模索が活発だ。生駒聖天さんどう会や万燈会実行委員会が宝山寺の彼岸法要に合わせて行うイベントは年々広がりを見せ、ついに今年9月23日には生駒駅前から参道のすべてに灯りがともった。
市外からの観光客も重要で実際に人数も多かったと思うが、灯籠に絵を描き、道に並べ、一つひとつにろうそくをともした地元の人々の参加が、参道の新たな賑わいを作り出していた。自作の灯籠を探し心躍らせて一段一段階段を登った子どもたちが、時代の変遷を超えてここにある参道を新たに踏み固めている。こうした行事の中で道の来し方行く末を肌で感じることができれば、道にも人にも幸せなことだ。来年は生駒駅が出来て百年、新たな賑わいによる「観光生駒」は、地元の人たちの参道への愛着から再生を始めている。私も自分が出来る方法で、あるいてみてきいて、少しでもたくさんのこの道の記憶をつないでいきたいと思う。

(しゃく・ねこ 歌人、ささぶね編集工房)奈良新聞2013年10月4日掲載
【2013/10/15 21:41】 | なら民俗通信 & 記事 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
生駒あるくみるきく【9】 百年目の道普請
ひき続いてアップいたします。
2013年7月掲載分です。

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 生駒あるくみるきく【9】 百年目の道普請    勺 禰子
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仲之町 
昭和20~30年頃の仲之町。
左は参詣者の接待所、子どもたちはこの道でスキー遊びもした。(撿保照生さん提供)


■大正十二年の道普請
生駒駅から宝山寺へ伸びる参道のうち、仲之町の辺りには、今も所どころ大正時代の敷石や石段が残っている。冬でも勢いよく歩けば汗ばむ階段沿いには、赤い鳥居の鮮やかな熊鷹神社がある。門前町との境、大石段下の植え込みにはひっそりと「道路開通記念」の石碑があり、発起人10名、請負人1名の名前と「大正十二年六月竣成」の文字が、勢いのある書体で彫られている。
「道は大正3年に出来て、これは推測やけど、きちんと石段になったのはこの道普請をした大正12年とちがうかと思うんです」と言うのは、記念碑の発起人に名前を連ねる撿保(けんぽ)安治郎さんの孫の撿保照生さん(昭和9年生)。参道は「新道」と呼ばれ、駅から宝山寺まで一丁ごとに十三の丁石が建てられていた。山崎町から訪ねてくるおばさんは、今は紛失してしまった四丁の丁石付近のことを、「新道四丁目」と呼んでいたそうだ。幼稚園のころ仲之町へ越してきた徳田宗一さん(昭和20年生)は、近所のおばあさんから、お嫁入りしてきたとき新道は地道で、自動車が走っていたと聞いたことがある。
今から99年前の大正3年、上本町奈良間に大阪電気軌道が開通して生駒駅が出来た。信者らの寄進で駅から宝山寺まで開かれた新参詣道は、人の往来を糧に、まるで道自体が生命をはらむかのように、ぐんぐんと発展したのだろう。建ち並ぶ旅館や茶店の中には、日本最初の映画スター「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助(大正15年没)の別荘もあったという。道普請に至った経緯や、たずさわった人々の範囲の詳細は不明だが、参詣道として出発した道が住人の手によって拡張・補強され、立派な記念碑をつくるほどに、道はそれぞれにとってかけがえのないものになっていたに違いない。

■お梅ちゃん・スキー・神輿
「大阪で材木を扱っている人の別荘前に、宝山寺の接待所があってね、参詣の人が休めるように無料のお茶を用意してたんや。黒い床几がいっぱい置いてあって、ちょっと気の弱いお梅ちゃんという女中さんが番をしてたなぁ」と撿保さんが言うと「空家になってからは卓球して遊んだなあ」と徳田さん。
「昔はお茶屋遊びのことを『ちょっと新道行ってくるわ』と言うくらい、ここは花街としても発展してね。吉原の大通り仲之町が町名の由来とも聞くね。新道が賑わってたのは昭和25年くらいまでかなぁ。枚岡(現東大阪市)の伸線業者がお客さん連れてきたわけ。尺遊びと言うて百円札を一尺(約30センチ)積んで一晩で使こたくらい儲かってたらしいで」と教えてくれたのは俵口育ちの取桝(とります)正一さん(昭和15年生)。
「この小さな仲之町に昔は四軒の旅館がありました。隣の軽井沢町一帯は松茸山で、秋は山を借りてロープを張って、お客さんに松茸狩りをしてもらいました」というのは、生家が旅館をしていた山中幸男さん(昭和18年生)。道普請の碑には、生駒小学校の校長だった祖父・豊太郎さんの名前もある。
「うちの祖父は芸妓さんや女中さんの着物の洗い張りをしてたんですわ」というのは、唐崎勝さん(昭和14年生)。積もりそうな雪の日は、朝から竹を割り火であぶって先を曲げ、参道の石で節をこすってスキーをした。道が敷き固められカチカチになったので、大人たちにひどく怒られたが楽しい思い出だ。
 昭和22年頃には新憲法公布を祝って、博多の祇園山笠のような神輿を作ったという。復員した人たちが担ぎ、二日間練り歩いてまわった。

■百年目の道普請
道普請のときに参道に移されたらしい熊鷹神社は、平成15年に老朽化で銅版の屋根に葺き替えられた。ほぼ一世紀この町の春夏秋冬を見てきた桜と紅葉の並木も病気にかかっていた。石段の劣化もここにくらす人たちには問題だった。この秋から参道の改修工事が始まる。
「仲之町の総意として市と話し合いを重ね、今ある石もできるだけ再利用する改修になる予定です」と言うのは現自治会長の木村茂さん(昭和16年生)。昭和40年代にこの町の住人になった清原卓さん(昭和13年生)も改修のための調査の光景を記録している。木村会長は「今は仲之町のナカは仲良しの仲と言うてます。参道は仲之町だけじゃなくて生駒の顔です。お参りする人もハイカーも、ここを歩いて『生駒てええところやな』と思ってもらいたい」。
落ち着いた住宅地となった参道筋に、かつての花街としての賑わいはない。昔に戻せばいいわけでもない。その時々の思いで、道は大切に扱われてきた。それぞれの時代の、それぞれの記憶をつないでいくとき、蓄えられてきた思いがあふれるように、にわかに参道がハレの空気をまとい出すように思うのは気のせいだろうか。

(しゃく・ねこ 歌人、ささぶね編集工房)奈良新聞2013年7月5日掲載
【2013/10/15 20:55】 | なら民俗通信 & 記事 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
生駒あるくみるきく【8】 新道の子として
というわけで、続けてアップいたします。
2013年4月掲載分です。

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 生駒あるくみるきく【8】 新道の子として    勺 禰子
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たか子さん4歳、母のみつ子さんと(昭和3年12月1日)

■観光生駒
「お花見の頃になるとね、駅前広場にテントを張って、無料でコーヒーを振る舞ってましたんよ」
生まれて一度も生駒市本町を離れたことがないという、茶道師範の芳野たか子さん(87)は、昭和初期の賑やかだった生駒駅界隈の、今や少なくなってしまった生き証人の一人だ。戦前、もちろん高架になる前の生駒駅を降りたった参詣者やお茶屋遊びに来た人たちは、まず宝山寺へ続く新参道筋の入口にそびえ立つ大鳥居と三階建の旅館群を目にする。そこへ各料亭から当番で来た女性たちがコーヒーを振る舞って、日常とは違う空間が演出される。遮るもののない空を見上げると、間近に生駒山と、宝山寺の般若窟がせりだしている。「花見小路」と呼ばれた桜並木はもとより、参道には桜と紅葉が交互に植えられ、春には桜のトンネルを楽しめたという。
鶴橋から快速急行で15分、今や大阪のベッドタウンの顔しか見せない、しかも雑然とした感の否めない生駒駅からは想像もつかない光景だ。

■新道の子
たか子さんの父・熊蔵さんも茶道によく通じ、宮内省で勤めていたころは女官達に茶の手ほどきをしたという。商いをしていた船場の実家が傾いたのを機に関西に戻り、そのころ目を見張るような速さで発展していた新道で普茶料理の店を始めた。
たか子さんが小学生のころ、学校帰りによく塀の節穴から覗いて見とれていたダンスホール(昭和5年に出来た生駒舞踏場)には、百人ほどのダンサーがいた。また、今も三階建の建物が残る「二鶴」という旅館にはビリヤード場があり、和服に青い上っ張りを着た店の女性が声をあげてゲームをしていたという。
「小学校では『新道の子』って言われてね、『みんなはあんなええ服着んでも、立派に農業をしてたらいい』と先生が農家の子らに言わはって、今で言うたらいじめやわね。私は父が年いってからできた一人娘やったし、体が弱かったから大阪から牛乳取り寄せてもらって毎日飲んだり、大事に育てられたんよ。だから特別な場所の子のように言われても、守ってくれる人がいたら、いじめなんか平気よね」
そんなたか子さんも、奈良の女学校に通う頃にはこの町の出身ということがうとましく、生駒駅で降りるのが恥かしかったと言う。「制服も髪の毛も、わざとオシャレにせずにモッサリしてね。私のこと田舎から来てると思ってた子もいたわね」
夏になると、参道筋界隈では夕涼みの義太夫の会が催され、大人たちが代わる代わる浄瑠璃を語っていたという。近所の人たちが普段の生活の中で繰り広げる、農村とは確かに違う「新道の日常」の中で、親しみや憧れ、ときには反発やうとましさも感じながら、それでも懐かしい記憶として、たか子さんの思い出は形成されていったことだろう。

■新道の機微
新参道筋にどれくらいの置屋(おきや)があったのか聞いてみると、たか子さんの口から魔法のようにすらすらと店の名が出てきた。花街では、客が来ると置屋に所属する芸妓は検番を通じて旅館に派遣される。
「置屋は席(せき)と言いましてん。明治席、栄席、勝美席、丸太席、松田席、勝家席、千歳席、菊利席、高砂席、川岸席、山朝席、永楽席、延糸席…」。同じく旅館の名もすらすらと出てくる。「そうそう、生駒三美人いうのもありましたで。山富の娘さん、うろこの娘さん、楽々のおかみさんいうたらえらいべっぴんさんやってね」
後年、川柳界の最大勢力「番傘川柳」の流れを汲む「生駒番傘川柳会」の会長をされていたご主人・正夫さん(雅号村雨・故人)の影響で川柳をたしなむたか子さんの句のなかに、こんな句がある。

 裏の裏見抜く女将の堅い口

「そら、こういう町で育ったから普通よりちょっとオマセやったやろね」というたか子さんだからこそ、さらっと詠める句かもしれない。

■花街とみそぎ橋
「むかしここに禊橋(みそぎばし)っていう橋が架かってたの知ってはる? 行場がいっぱいあったから、そんな名前がついたのかしらん」
ケーブル線に沿って流れてきた川は、参道筋が急坂になる手前を横切っているが、今では道路下の暗渠となった水路に気付く人も少ないだろう。禊橋の名は、お父さんのお店のマッチラベルにも「生駒山禊橋普茶料理」として刷られていたそうだ。
夜毎三味線の音色の響く参道筋の奥にはたくさんの滝があり、小さな行場もたくさんあった。かつてこの町に降りたった、主に都会からやって来た人々は、それぞれ目的は違いこそすれ、生きるためのエネルギーを補給しにこの地に降り立ったのではないだろうか。と同時に、その時代の「新道の日常」の中にも、今では想像するしかない、生のエネルギーが充ち溢れていたに違いない。

(しゃく・ねこ 歌人、ささぶね編集工房)奈良新聞2013年4月5日掲載
【2013/10/15 20:41】 | なら民俗通信 & 記事 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
生駒あるくみるきく【7】 道に出てきたお地蔵さま
いやはや、またまたブログアップしてませんでした(^-^;
で、「生駒あるくみるきく」に至っては、
なんとまあ、9か月も放置しておりましたm(_ _)m
その後、おかげさまで第10回まで無事連載しましたので
これからまとめてアップいたします。
来年で100年を迎える宝山寺新参道については、
これからも歩いて見て聞いて、書きとどめていくつもりです。
この道に関わるどんな些細なことでも結構ですので、
ご存じのことありましたら、教えていただけましたら幸いです。

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大師堂改築中の仮住まいでも丁寧に祀られているお地蔵さま(2013年1月26日撮影)

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 生駒あるくみるきく【7】 道に出てきたお地蔵さま  勺 禰子
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■鈴の音
朝、生駒駅へ急ぐ通勤途上の人の中にも、立ち止まって鈴を鳴らす人が少なくない。買い物の行き帰りに、資源ごみを出しに来たついでに、散歩の途中に、朝晩の日課に、あるいは日曜ハイカーも、昼となく夕となく、そこを通りかかるたくさんの人々が手を合わせてゆくお地蔵さまがある。
宝山寺の参道筋沿いにある生駒市山崎新町の3体のお地蔵さまは、生駒大師堂(民俗通信213参照)の改築が始まってからは近くの民家の庭先で新しい大師堂の完成を待っている。仮住まいの祠(ほこら)には、以前と変わらず花が活けられ、まわりはきれいに掃き清められている。この道を使って生活をしている人たちの日々の祈りの場になっているお地蔵さまには、ちょっとした物語があった。

■川から参道筋へ
地元で生まれ育った年配の人たちによると、参道筋とケーブルの間を流れている川のほとりにぽつんとあったお地蔵さまは、50年ほど前に隣りの広場に宝徳寺(韓国寺院・民俗通信208参照)が移転してきたのをきっかけに、生駒大師堂の軒先に移されたそうだ。
もといた場所から引っ越しを余儀なくされたお地蔵さまだが、参道筋という新道に出てきたことで、お参りをする人が増えたという一面もあった。「川のお地蔵さま」は、「道のお地蔵さま」として信仰圏を拡げたと言える。
大師堂の方も、お地蔵さまに軒先を貸したことで、地元の婦人会や子ども会がお地蔵さまのお世話とあわせて大師堂の掃除をするようになり、以前よりにぎやかになった。こうしてお大師さまとお地蔵さまが仲良く並ぶ光景が参道筋になじんでいった。

■地蔵盆と数珠回し
地蔵盆は、地蔵菩薩の縁日である8月23、24日に行われる子どものための行事で、特に関西で盛んと言われる。山崎新町でも23日の朝早くから、町の人たちが大師堂前の道の両側に提灯を張り巡らせてゆく。赤・白・青に彩色された提灯には、「地蔵尊 山新講 たまゆら会」という文字と、それぞれ子どもたちの名前が書かれていて、あたりは華やいだ空間に一変する。
自治会長の巽恒雄さん(73)は、「地蔵盆の日には昔から〈数珠回し〉言うて、子どもらが大きな数珠を持って順番に回して、お年寄りが鉦を叩きますねん。今は子どもの数は10人ほどになってしもたけどなぁ」と教えてくれた。息子さんや娘さんの幼かった30年ほど前は、子どもの数はもっと多く、数珠回しは大師堂の中でしていた。大師堂が老朽化してきた近年は、向かいの工場の敷地を借りて執り行っている。「今年の夏は新しい大師堂の中で数珠回しできるかなぁ」と、巽さんも大師堂の完成を心待ちにしている。

■日々の祈り
お地蔵さまの小さな祠は、郊外の古い集落や古都の町中はもとより、オフィス街のビルの谷間や、商店街の中などあらゆるところに根強く残っていて、それらをよく見れば、赤いよだれ掛けは真新しく、手向けられた花はしおれていないことが多い。山崎新町のお地蔵さまも、いつも新しい花を活けられるだけのお賽銭はたまっているそうだ。
「地蔵」という言葉はサンスクリット語の〈命をはぐくむ大地〉が訳されたと言われ、地蔵菩薩は〈弱い立場の人々を救済するための永遠の修行者〉を意味する。そんな難しいことを考えなくても、くらしの中で自然に発生する祈りの対象として、お地蔵さまは各地で生き続けている。

■変化を見守る
年月が経てば個人の建物は建て替わり、町並み全体が姿を変えてゆく。それに対して道自体は、再開発や自然災害などがない限り大きく変わることはない。お地蔵さまも時に思わぬ引っ越しをするかもしれないが、基本的にはその地域の守り神として、土地の記憶を刻みながら人や町の変化を見つめ続ける。反対に変化した町にくらす私たちは、ずっと変わらないお地蔵さまに手を合わせることで、土地の記憶をいただいているのかも知れない。

(しゃく・ねこ 歌人、ささぶね編集工房)奈良新聞2013年2月1日掲載
【2013/10/15 20:16】 | なら民俗通信 & 記事 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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