門 ―宗助と御米の場合
三度目の『門』、十年ぶりくらいに再々読中。
しかし、肝心の部分は下記のように観念的で、特に引用の(中略)以降の部分に至っては、
「大風は突然不用意の二人を吹き倒したのである。」
と何のことなのかサッパリわからない。
漱石さん、そりゃないでしょ。とは言いたくなる。
でも、これはよく言われるような漱石の、
体調不良からの逃げでも、肝心な部分をなかなか書かないという逃げでもないのではないか、と今回読みながら思った。
こういう状況を客観的に語ることは不可能で、
不可能に挑戦するのが文学であることは承知の上で、
やはり文字で表すこと自体が不可能だという表明かもしれないと。
文学の限界をあっさり認めたんじゃないかと。
そうじゃなけりゃ、いくら調子が悪くても、
こんな投げ方、ありえないでしょ。
物語の三分の二まで引きずってきた二人の過去が
これだけなんですから。
ミステイクとかいう問題じゃなく、確信犯だと思ふ。

…とここまで書いて乱暴な結論に自ら失笑。
要(かなめ)の周縁をどのように書くか、の問題。
そういう意味では『門』は最後までなぜ二人の今があるのか、
を書かなくてもよかったんだと思ふ。
(これまた、かなり乱暴な結論。しかも何故「思ふ」だけが旧かななのか。笑)

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 宗助は極めて短かいその時の談話を、一々思い浮べるたびに、その一々が、ほとんど無着色と云っていいほどに、平淡であった事を認めた。そうして、かく透明な声が、二人の未来を、どうしてああ真赤に、塗りつけたかを不思議に思った。今では赤い色が日を経て昔の鮮かさを失っていた。互を焚き焦がした炎は、自然と変色して黒くなっていた。二人の生活はかようにして暗い中に沈んでいた。宗助は過去を振り向いて、事の成行を逆に眺め返しては、この淡泊な挨拶が、いかに自分らの歴史を濃く彩ったかを、胸の中であくまで味わいつつ、平凡な出来事を重大に変化させる運命の力を恐ろしがった。
(中略)
宗助は当時を憶(おも)い出すたびに、自然の進行がそこではたりと留まって、自分も御米もたちまち化石してしまったら、かえって苦はなかったろうと思った。事は冬の下から春が頭を擡(もた)げる時分に始まって、散り尽した桜の花が若葉に色を易(か)える頃に終った。すべてが生死の戦であった。青竹を炙って油を絞るほどの苦しみであった。大風は突然不用意の二人を吹き倒したのである。二人が起き上がった時はどこもかしこもすでに砂だらけであったのである。彼らは砂だらけになった自分達を認めた。けれどもいつ吹き倒されたかを知らなかった。
 世間は容赦なく彼らに徳義上の罪を背負した。しかし彼ら自身は徳義上の良心に責められる前に、いったん茫然として、彼らの頭が確であるかを疑った。彼らは彼らの眼に、不徳義な男女として恥ずべく映る前に、すでに不合理な男女として、不可思議に映ったのである。そこに言訳らしい言訳が何にもなかった。だからそこに云うに忍びない苦痛があった。彼らは残酷な運命が気紛(きまぐれ)に罪もない二人の不意を打って、面白半分穽(おとしあな)の中に突き落したのを無念に思った。

 夏目漱石『門』より
  ※引用4行目の「炎」は正確には「(「(諂-言)+炎」、第3水準1-87-64)」。

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【2008/09/22 00:10】 | 日々雑記 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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