私のいる・いない
短詩型のなかではたびたび問われる「私性」。

昨日はとある集まりでそのことについてのパネルディスカッションがあり、
実作者としての参加ではなかったけれど、大変刺激的だった。

ある一つの短詩型の歴史的な流れとして、

  1.私がいない(第三者として詠む)
   ↓
  2.私がいる(いわゆる私性)
   ↓
  3.私がいない(私性の深化・拡散・あるいは抹殺・あるいはキャラクター化)

という構図があるとのこと。
これは短詩型全体にいえると思うし、文芸・思想(音楽も含めて)全体にもいえると思う。
今また「わたしがいない」方向に進まざるを得ない大きな流れがあるとすれば、
それは意識的にされるべきかそうでないのか、という選択肢くらいは
作者は握っておかないといけないと思った。
それを明確に感じながら詠む必要はないし、そんなことはとりあえず私には出来ないと思うけど、
作品として出来上がったものをそういう目で見る必要がある、という意味で。

自分の詠んだものを振り返ってもそれは非常にあいまいで、意識的ではない。
2と3の間くらいをふらふらしている感じがする。

ふっと思い出したのが、

 峠から眺めるときに思ひ出す 女郎のあたしを殺めたをとこ   禰子

これは、もちろん生きている私ではないし、
かといってキャラクターでもないし、
ちょっと説明ができないけど、決して「嘘」ではない(んです ^-^;)。
「私性」というものの洞の入り口を昨日はちょっと見てしまった。


【2009/09/20 11:31】 | 日々雑記 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
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コメント
おはようございます。「私がいる」のがモダンの歌、その次の「私がいない」のがポストモダン? (いつぞやの某短歌講座の「モダンvsポストモダン」、なんでそんな妙なテーマを立てるんだろうと思ったのに、ちょっと毒され始めているだらうか。^^;)
ふと思い出しましたが、高浜虚子の花鳥諷詠論によるなら(坊城俊樹さんがラジオでレクチャーされていた話の聞きかじりなのですが)、最初に「客観写生」の段階、次に「主観写生」の段階に進む。たいていのひとはこの「主観写生」の段階までは進むことができるのだそうですが、虚子の説ではさらにその奥に「客観描写」の段階というのがあるのだそうです。この「客観描写」の段階では、花を詠んだらそのひとが花になる、鳥を詠んだらそのひとが鳥になる、というように俳人自身に自然が流入してきて自然と一体化してしまうのだが、これは誰もが到達できるというものではない・・・のだそうです。(以上、昨年5月に同人誌のブログに書いた記事の要旨。)
アバウトなところで言えば禰子さんの聞かれた話と同じ発想なんじゃないかな?
【2009/09/21 09:16】 URL | tamaya #wMURzdEY[ 編集] | page top↑
■tamayaさん

あんれまー、すっかり放置状態でもうしわけありやせぬ。
>「私がいない」のがポストモダン?

あー、そうでした。「ポストモダン」。なつかしやなつかしや。
そんな言葉があったことすら忘れておりましたYO!
これでも哲●科の片隅に在籍しておったのですが(恥ずかしいから言わんといてくれと言われさう)

>花を詠んだらそのひとが花になる

モハメド・アリの境地ですね!!(ん?)
【2009/09/29 00:25】 URL | 禰子 #xNtCea2Y[ 編集] | page top↑
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