「短歌でつづる夫婦のきづな」
1127御堂筋1

今朝のNHKニュース「おはよう日本」で、
8月に亡くなられた歌人・河野裕子さんの特集
「短歌でつづる夫婦のきづな」
が放映されていた。
(といっても、私はテレビを持っていないので、
NHK見逃しオンデマンドで昼過ぎに視聴)

癌が再発してから夫婦で300首の歌をやりとりしていた
最後の歌は、夫の永田和宏氏が聞き取って書いた
など、永田氏へのインタビューが研究室や自宅で行われていて、
5月に講演会の帰りにたまたま少しお話した永田さんを思えば、
びっくりするくらい老けられていた(失礼)。

 子供みたいに皿を箸で引き寄せるあなたを残して死にはしない  裕子

 車でも車椅子でもどこまでも連れていくから ひとりで行くな  和宏

最後に夫が妻のとぎれとぎれの声を聴きとって書き写した

 手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が  裕子

は、きっと絶唱として何度も取り上げられるのだと思う。
永田さんは、
「今の医学の力では完治しないのはわかっていた。
残された時間の中でどれだけ思い出せる時間の記憶を作っていくか
ということがとても意識の中に上ってきた」とおっしゃっていた。

「思い出せる時間の記憶」というのが、
歌人には、歌にするということだと思うのだが、
それを発表するかどうか、という問題もまたあるのだと思う。
このご夫婦の場合は、発表をするか否かの選択権はもはや自分たちにはない
パブリックな(と皆に思われている、あるいは自分たちでも思っている)人だけど。

 よく喋りよく聞きあなたの傍に居てこのままこの世が続いてほしい  裕子

 われが泣けばわれの頭を抱きよせていつまでもいつまでも撫でやまざりき  和宏


NHKニュースでは河野裕子さんのことを
「戦後を代表する女性歌人」といい、
永田和宏さんのことは、
「理学博士として大学で研究の傍ら、歌人としても知られる」といい、
(もちろん「塔」の主宰ということなど一言も触れず)、
永田紅(こう)さんのことは
「娘の紅さん」とだけ紹介し、
永田淳さん(息子さん)に至っては今回は出てこなかった。

戦後を代表する女性歌人・河野裕子をとりまく家族との闘病でつづられた夫婦愛の歌、というスタンス。

一般の人(いわゆる「歌壇」というものにかかわりのない人《って、私も関係ないけどw》)にとってみたら、この家族が「歌人一家」ということがわからない番組構成になっており、ある意味それを隠していることにずるさを思い、また、感覚的には真っ当でもあると思った。だって、ふつうに考えたら有名人はやっぱり河野裕子であって、短い時間の中で全員を底上げしてまで放映することはないと思うから。

しかし、タイトルの「短歌でつづる夫婦のきづな」
はどうだろうか。
実際のご家族のありようを知るよしもないが、
これだけでは、いささか「たまたま感」が否めない。
たまたま短歌で救われた、あるいは
たまたま短歌が闘病の家族愛を掬いとってくれた、みたいな。

この家族が、何十年も家族で家族を詠みあってきた
しかも、それを公な場で公表する機会に恵まれているという点では「超」特殊な家族
であることがここでは抜け落ちていて、
編集、というのはむずかしい、と改めて思った。

河野裕子さんのことに関しては、
私はその歌歌でいろんな気持ちはあるけど、基本的には中立な気持ちでいると思う。

今日の龍馬伝の最終回を見てても思ったけれど、
反発や尊敬や―ある時はある種の複雑な軽蔑さえも―いろんな思いを感じさせて初めて、人は魅力的なんだな、とも思う。

発表することで「夫婦愛の歌人」と言われようが、
(詠んでいても)発表せず「この期に及んでも愛のない歌人」と言われようが、
ごく個人的な歌を人に見せるか見せないかは、生きているうちは個人の決めることで、
それぞれの生き方なのだから、自分にとっても他人にとっても仕方がないこと。

河野・永田夫妻の歌を露悪的だということは簡単だし、
愛情深いわね、ということも簡単だ。
でも、どちらも他人が簡単に言うことではないし、簡単には言えるはずもない。

それは
「どうしてこういう情景を詠んだのかわからない」
とか
「この歌には何か(大切なものが)足りない」
とかが、
「他人」が客観的な理由も述べもせずに簡単に断言できないのと同じだ。
ついでにいうと、
「この歌のこの韻律が悪い」
というのも、きっちりと説明せずに、「韻律が悪い」だけ言い逃げするのは失礼というか無礼。
これらは歌評、であるなら、もっと論理的にいうべきで、
歌評でないなら、「他人」が言うことではない。それは単なる独断であり、
独断だが私はこう思う、こう言いたい、こう言わずにはいられないんだ
と言い切る何かがあれば言えばいいだけのこと。

技巧的なことに批評や批判を加えるのはともかく、
情景や要素や韻律に関して「他人」が何か「意見」をするには、
もちろん、それを言ってはいけないというのでは決してないが、
刺し違えの覚悟が必要だと、よくよく思いを至らせたいと、私は思う。
歌評というのは、限りなく遠慮なく、けれど限りなく思慮深くなければ、
作者はおろか、自分自身も傷つける。

ま、これも私の一見解ですが。

それでも、私は私の歌を詠むし、
でもそれは、私のすべて、ではもちろんありえないけど、
でもだから、私は歌を詠むことをきっとやめないと思う。

だって、自分の意志だけではじめるとかやめられるとか、
そういうものじゃないから。


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【2010/11/28 23:47】 | 日々雑記 | トラックバック(0) | コメント(1) | page top↑
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