生駒あるくみるきく【3】 受け継がれるくらし
往馬大社祭礼の日 稚児姿の阪本徹雄さん 満5歳 (昭和19年10月11日)

奈良新聞で毎月第1金曜日朝刊に掲載される「なら民俗通信」
明日「生駒あるくみるきく【4】 隧道をつくった人々」が掲載されます(のはず…)。
大阪では、近鉄難波駅・大阪上本町駅の売店でも売っているそうです(Wikipedia談)。
奈良では近鉄主要駅の構内の売店か(目立たないところにある)自動販売機で。
お見かけの上、たまたま手に120円を握りしめていた方(笑)、
もしくはいろ○す・伊○衛門・ファン○グレープその他を買おうとしていた方は
その手をそっと奈良新聞へ・・・(^0^)

民俗学や歴史学の先生や、行政、寺社、まちづくりなどの立場から、
いろんな人が奈良について書かれてきたこの欄に、
勺禰子、202回目から登場しています。
そろそろ、このケッタイな名前も
「ああ、なんかペケペケが多くて読まれへん名前の人」
という浸透の仕方でもええのでしてくれているといいけんどw

というわけで、今回は5月4日(金)掲載された
「受け継がれるくらし」をアップします。

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 生駒あるくみるきく【3】 受け継がれるくらし  勺 禰子
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■宮座
「そら参道筋で生活してても、ここには生駒の宮座があるからな。
聖天さんは商売の神さんやし、他にもぎょーさん神さんおるけどな」。
「生駒の宮座」とは、勇壮な秋の火祭りで知られる往馬大社のこと。
「宮座」という古くから使われてきた言葉を、
当たり前のようにさらりと言ったのは、阪本徹雄さん(72)。
生駒駅の南から宝山寺へ続く参道筋の、
急坂を上った山崎新町で生まれ育ち、くらしている。
往馬大社の最寄駅である一分駅へは、
参道筋を降りた生駒駅から生駒線に乗って2駅。
鉄道だと遠く感じるが、町から南東に歩けば2キロ弱。
氏子であってもおかしい距離ではない。
参道筋には現世利益を求めてやってくる人たちが往来し、
町はそのために発展もしてきた。
けれどそのための旅館や店を営む、営まないにかかわらず、
この道に住む人たちには普段のくらしがある。
阪本さんの記憶からそれをたどってみたい。

■氏子
生駒は大阪と奈良を東西にほぼ直線で結ぶ幹線道路としての
暗峠(くらがりとうげ)を中心に栄えてきたが、
「生駒郡役所文書」によると、大正3年に大阪電気軌道(大軌)が
峠より3キロ程北の鉄道ルートを開通させてから、
駅周辺地区の営業者戸数は、3~5倍に急増した。
他村のそれが横ばいか減少の中、鉄道開通により
人やモノの流れが大きく変化したことがわかる。
また、『生駒市誌・資料編Ⅱ』には
「大正十年頃には、十三町の新参道の両側は家屋で埋まり、
街層村の新しい市街が形成されたこの新参道は、
生駒停留所に近い下の方は谷田、宝山寺に近い上の方は菜畑、
中間は山崎の領分であった。当時この新参道に沿った市街地を『新道』と呼び、
それぞれ谷田新道、山崎新道、菜畑新道と名づけられた」とある。
往馬大社は「生駒谷十七郷の氏神」として広く信仰されてきたということ、
また元村はそれぞれ神社にほど近い竜田川沿いにあることを考えると、
参道筋にくらす人たちは、往馬大社の氏子意識を古くから持っていたと言える。

■氏神祭礼記念
「かいらし写真残ってんねんで」と、
阪本さんが冠を被った愛らしい稚児姿の写真を、
少し照れながら見せてくれた。
裏には「阪本徹雄 五歳 昭和拾九年拾月拾壹日 氏神祭禮記念」と
万年筆で一字一字丁寧に書かれている。
「親父が書いてくれたんや。子どもには結構な距離やけど、
戦時中のことやし、歩いて行ったんやろなあ」。
地元の人が「山新」と愛着を込めて呼ぶこの町では、
今も秋の祭礼に子ども神輿を出す。
火祭りの日に往馬大社にもらいに行った火を、当屋の提灯にともし、
小ぶりだが鳳凰をいただいた立派な神輿二基で、町内や生駒駅前を練り歩く。
婦人会を中心に自治会で協力しておにぎりを握って配り、
子どもたちも楽しみにしている。
日常生活では接点の少なくなってしまった共同体の成員を、
今もささやかな祭りが結んでいる。

■ソーレン道
山崎新町の南端、西旭ヶ丘との境を東西に伸びる道を東に向かって歩くと、
行く手には矢田丘陵が間近く見え、背後には生駒山が迫っている。
南側の斜面は「吉野建て」で、道路に面した玄関が
2階や3階というつくりになっている家が並ぶ。
「小さいときはみんなソーレン道て呼んでな、なんや怖かったな」と阪本さん。
ソーレン道は葬送の行列が通る道のこと。阪本さんのお父さんは、
石切神社や生駒の町役場の建築にも携わった大工の棟梁だった。
町内で棺桶が必要になったときには、四角い座棺を作っていたという。

■半月続く盆踊り
参道筋と西にほぼ並行に走るケーブル線の間には、小さな川が流れている。
今では埋め立てられたが、ため池もたくさんあり、川ではカニを、
池ではどじょうを捕まえて泳いで遊んだという。
「今の健民グラウンドの向かい側あたりの川そばに広場があってな、
野球もようしたな。夏の盆踊りは1週間から半月ほど毎晩やってたんちゃうか。
今みたいに他に楽しみないし、櫓は年がら年中そのまま組んであったな。
カセットテープもないし、音頭取りの得意な近所の人が好きに唄って、
そらにぎやかに夜遅うまで踊っていたな」

■くらしと信仰の山
生駒山系には大阪側、奈良側双方の小さな滝ごとに
水垢離(みずごり)をとる行場があり、
今も小さな宗教施設が点在している。
生駒山は信仰の山としてクローズアップされることが多いが、
麓には人々の日常風景がちゃんとあった。
清新な空気や水にはぐくまれ、往馬大社の氏子としてまとまってくらしてきた
生駒の人たちの普段のくらしがそこにあってこそ、
民衆の間近にある信仰の山としての底力が芽生えたのではないだろうか。

(しゃく・ねこ 歌人、ささぶね編集工房) 奈良新聞2012年5月4日掲載
【2012/07/05 22:03】 | なら民俗通信 & 記事 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
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コメント
昭和40年代以降、生駒山麓は物凄い勢いで開発されましたね。当時はこんな辺鄙なところに人が住むのか、と思いましたけど。風景がすっかり変わってしまって、電車の中から見ていると、まるで別世界になりました。
でも、村とか町は変わっても昔ながらの民俗は伝えられているんですね。こういう記録・調査は貴重だなあと感心します。
私にとって生駒とは何と言っても山頂の遊園地!。お化け屋敷、最高でした。
【2012/07/08 05:42】 URL | 田宮ちづ子 #-[ 編集] | page top↑
■田宮ちづ子さま

いつもありがとうございます(^-^)
ほんと、100年前は想像だにできなかった光景でしょう。
遊園地!
昨夏、全国集会のあと、
なんと蒔田さくら子さんまで
生駒山上遊園地のスカイウォークを
こきこきしたのですよーww
炎天下の閑散とした朝の遊園地を
怪しげな大人の集団が歩くさまは←短歌人ww
きっとお化け屋敷に匹敵??
でも、なぜかみんな嬉々としておりました(^0^)

今後も地道に、
生駒ガール(が、がーるはちょっと難しいお年頃に…)に邁進いたします。
【2012/07/11 02:59】 URL | 禰子 #xNtCea2Y[ 編集] | page top↑
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