生駒あるくみるきく【4】 隧道をつくった人々
ノミの跡が残る巨大な石
ノミの跡が残る巨大な石

奈良新聞で毎月第1金曜日朝刊に掲載される「なら民俗通信」に、本日「生駒あるくみるきく【5】 門前町に生きる」が掲載される予定です。大阪では、近鉄難波駅・大阪上本町駅の売店でも売っています。奈良では近鉄主要駅の構内の売店か(目立たないところにある)自動販売機で。
お見かけの上、たまたまお財布の小銭が重くてうっちゃりたいと思っていたあなた(笑)、お手に取ってお読みいただけましたら幸いです。

民俗学や歴史学の先生や、行政、寺社、まちづくりなどの立場から、いろんな人が奈良について書かれてきたこの欄の第202回目から書かせていただいてちょうど5回目。少し身辺があわただしくなったこともあり、しばらく休憩をいただくかもしれませんが、引き続きあるいてみてきいて書いていく生活スタンスに変わりはありません。
というわけで、今回は7月6日(金)掲載された「隧道(トンネル)をつくった人々」をアップします。

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 生駒あるくみるきく【4】 隧道をつくった人々  勺 禰子
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■参道筋の韓国寺院
 「大阪城を作ったんは本当は大工さんや、他にも瓦職人やいろんな職人がいたやろうね。トンネルもたくさんの人が作りあげた。歴史書に残っていなくても、一人ひとりの人生に一つひとつの歴史がある。〈一般大衆〉なんてどこにもいないよ」と言うのは宝徳寺の二代目の住職、姜栄熹(カン・ヨンヒ)さん(65歳)。
 宝山寺への参道筋を400メートルほど上がり、ハングル文字でルビを振った「曹渓宗 宝徳寺入口」の看板から細い脇道を西に70メートルほど進むと、紺地に金で書かれた「生駒山 宝徳寺」の額のかかった小ぶりの山門が見えてくる。曹渓宗は禅宗の一つで、韓国では約8割の寺院を占める最大宗派だ。

■無縁仏慰霊碑
 宝徳寺には旧生駒トンネルにまつわる慰霊碑がある。現在の韓国、済州道から渡ってきた先代の住職が昭和26年に大阪市生野区で開山した同寺は、外国の宗教団体として一番早く宗教法人格を取得した後、昭和30年代半ばに谷田町(現在地・生駒市本町)に移転してきた。生駒を移転地に選んだ理由は手狭になったこと以外不明だが、旧生駒トンネルをつくる際の石切り場でもあったらしい現在地は、それまで地域の人々が先祖や死者の霊を供養するために踊る盆踊りの場でもあった。
 本堂を過ぎて右手奥へ70段ほどの階段を上りきると、視界が開けた広場の奥に、韓国人犠牲者無縁仏慰霊碑と極楽地蔵尊が建立されている。かつて同胞がこの地でトンネル工事に携わり、過酷な労働条件の中で病死、あるいは事故死したことを知った先代の住職が各方面に働きかけ、1977(昭和52)年に落成した。
慰霊碑に向かう階段の途中には、百名近い寄贈者の札が今も飾られており、姜住職は朝晩の祈祷を欠かさないのは勿論のこと、毎年社会見学にやってくる小学生たちに、旧生駒トンネルでの出来事を語り伝えている。

■トンネル工事
 生駒山は、古事記にも出てくる地元の豪族・長髄彦(ながすねひこ)にまつわる話や、役行者・空海など宗教者の修行の場として信仰の対象である一方、万葉集では恋情や望郷の気持ちを託す山として数多くの歌に詠まれ、その後も大阪と奈良を峠でつなぐ「越える道」として、密接に人々のくらしと関わってきた。その生駒山の腹を「潜(くぐ)る道」として、3388メートルという当時日本で二番目の長さのトンネルが計画された。工事の許可が下りたのは、1910(明治43)年12月。4ヵ月前の8月には日韓併合条約によって「韓国併合」が行われていた。
 翌年から始まった工事には、日本各地のみならず、朝鮮半島からも労働力として期待された人々が海を渡ってきた。慣れない土地での過酷な掘削作業は、故郷を離れて来た人には特に不安であっただろうし、朝鮮半島からやって来た人にとっては、時として受ける人種差別に、やる方ない気持ちがあったことだろう。

■落盤事故と二体の石像
 工事が始まって以来、大小多くの落盤事故が起こっていたが、1913(大正2)年1月26日に起きたトンネル東口付近での落盤は、生埋め約150人、死者約20人におよび、救助隊までも二次災害に遭う大惨事となった。宝徳寺の慰霊碑前に祀られている小さな石像二体は、この落盤事故の犠牲者を弔うために作られたものだという。
 二体ある理由については、トンネルの東口と西口にそれぞれ置かれていたとも、日本人と朝鮮人を分けて祀るためだとも伝えられる。この事故での朝鮮人死者数が判明していないので真相はわからないが、当時の状況を考えさせられる。

■ノミの跡は人の跡
 姜住職が「本堂の裏に石切り場らしいものが残っているよ」と教えてくれた。「ここが作業場だったとは聞いていたけど、掃除していたらノミの跡があったね。これだな、やはりここは石切り場で間違っていなかったんやな、という気持ちがあるね。慰霊碑もこの因縁でここに出来たと思うね。そうでないと、ここに慰霊碑が出来るわけがないもの」という。
 父の定均さん(故人)も昭和初期に慶尚南道から渡ってきた。自身は北九州市小倉で生まれ、比叡山でも修行をした。先代の住職とは血縁はなく直接の面識もない自分がこの場所に来たのは、何かご縁があってのこと、あと半年で百年の節目を迎える落盤事故のことを、これからも地道に伝えていきたいと思っている。
百年前まで巨大な屏風のように立ちはだかっていた生駒山に、近隣の人、日本各地の人、遠く海を渡ってきた朝鮮の人、数知れない人々の労苦の末、トンネルが完成した。
 新しい道をつくった人々に思いを馳せると、今までと全く違う景色が、そこここに見えてくる。

(しゃく・ねこ 歌人、ささぶね編集工房) 奈良新聞2012年7月6日掲載


韓国人犠牲者無縁仏慰霊碑
韓国人犠牲者無縁仏慰霊碑


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