生駒あるくみるきく【5】 門前町に生きる
長らくアップしておりませんでした(^-^:
奈良新聞の毎月第1金曜日に掲載されている「なら民俗通信」
今週金曜日に【7】が掲載予定です。

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 生駒あるくみるきく【5】 門前町に生きる  勺 禰子
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昭和30年頃の門前町のにぎわい(生駒市提供)
昭和30年頃の門前町のにぎわい(生駒市提供)

■夕焼け小焼け 
「大阪では長屋ぐらしでしたけど、お父さんは尺八、お母さんは大正琴やピアノができましてん。よく弟妹や近所の子ども15人ほど集めて、『夕焼け小焼け』や『靴が鳴る』をみんなと一緒に歌とてくれました」
生駒市門前町の料理旅館「天満屋」に、今はひとりで暮らす谷内ヨシ子さん(86)は、楽しかった幼い頃の記憶を丁寧にひもといてくれた。「菜畑出身のお父さんは、『ヨシ子、月が出てくるあの山の向こうがお父さんの里や』言うて、生駒山の方を懐かしそうに見ることが多かったです」。

■別れ 
ヨシ子さんは、11歳で母を、12歳で父を病で相次いで亡くした。母も幼い頃両親を亡くし、九州から大阪の裕福な親戚へもらわれて大切に育てられた。大きな農家で不自由なく育った父は、連帯保証人になって傾いた生家を離れ、腕のいい貝ボタン職人となって母と出会う。女学校まで出した養女の思いがけない結婚に父は反対し、勘当された2人は長屋でくらした。それでも快活だった母は、34歳のとき4人の子どもを残し、腎臓炎であっけなくこの世を去る。翌年、父も44歳で病にたおれた。すぐ下の弟は奉公に、妹は父の知人にもらわれた。幼い末弟と共に、子どものいない叔母夫婦にもらわれることになった長女のヨシ子さんは、昭和13年、父がいつも眺めていた生駒山を越えて門前町にやってきた。

■天満屋でのくらし 
門前町は宝山寺への参詣者や宴会客で賑わっていた。ケーブル線宝山寺駅前で草もち屋をしていた育ての父・谷内丑太郎さん(故人)は、2人を引き取った翌年の昭和14年4月、売りに出されていた「天満屋」を買って旅館業を始めた。父母を亡くし、弟妹のため奉公に行って学校が途中になっていたヨシ子さんを気遣って、養父母は裁縫学校にも入れてくれた。
ある日、宴会の配膳の手伝いをしていたヨシ子さんに「君か!元気にしてたんか!」と、抱きつかんばかりに手を握ってきた男性がいた。小学校のときの担任の先生だった。「最初はわからんでびっくりしたけどね、『私、いま幸せにくらしてます』て言うたら、先生は『よかったよかった』言うて、えらい泣いてはったよ」。

■映画館・海軍・終戦 
昭和16年末に太平洋戦争が始まるまで、華やかに栄えていた参道筋。生駒駅南に出来た映画館はいつも満員で、主に旅館の帳場を手伝っていたヨシ子さんもよく観に行った。「朝は時間あるし、芸妓さんも私もよう観に行きましてん。用事があると休憩中は『天満屋さん、帰ってください』てアナウンスが流れて、上映中はスクリーンの横に『早く帰ってください』と貼り紙されて。あれはかなんかったわぁ」と声を出して笑う。
「12月8日の開戦翌日から、カフェの音楽はみなピタッと止まるし電気は消さなあかんし。生駒は空襲はなかったけど、大阪が焼けたときは山の向こうから手紙やら紙屑やら、通帳まで燃えて降ってきて。あと、生駒山頂に海軍がきはりましてな。陸軍と違ごて海軍が山で訓練とは、こらいよいよアカンなぁて言い合いましたで。1年ほど休業して、戦後は昭和20年の末から商売し始めましたけど、そら忙しおましたで」。嫁入り道具にと揃えてもらった着物は米に変わり、酒やビールは大阪で商売している人に調達してもらった。

■笑って生きる 
高度成長期が過ぎると盛んだった宴会も次第に減り、かつて生駒の全生産額の3分の2を稼ぎ出したという生駒新地は、華やかさをなくしつつ、色町の様相を濃くしていった。「日曜日の心斎橋みたいやった」とみんなが口をそろえて言う賑わいはもうないが、現世利益やパワースポットとしての霊力を求めて、宝山寺やその周辺には今でもそれなりの人出がある。お茶屋を改造した地元野菜の料理や、エスニック料理の店ができるなど、新しい動きもある。
天満屋は2年前に廃業届を出し、70年以上の歴史に幕をおろした。3年前に不慮の事故で息子を亡くしたヨシ子さんは、「先のこと考えても生きていられへんから、笑って生きるだけですわ。まだまだがんばるよ」といい、店を切り盛りしているときから好きだった花の栽培や、なついている猫への餌やりを欠かさない。

■道の記憶 
鉄道開通と共に宝山寺新参道筋が出来て約一世紀、多くの人が商売のため、くらしのため、あるいは人生に翻弄されてこの道を往来した。大きな災害や都市計画さえなければ、道そのものの寿命は案外長い。年を重ねてきた道には、石段や丁石など目に見えるものだけでなく、まだ語られずにひっそりと抱き続けられた記憶も残されているだろう。そんな記憶をこれからもていねいに掬って刻み直したい、と思いながら晩夏の空を見上げると、この土地の来し方行く末を見守るかのように、般若窟がもこもこと、生駒の山肌からせり出していた。

(しゃく・ねこ 歌人、ささぶね編集工房)奈良新聞2012年9月7日掲載

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