十津川 その二
『崩れやすき山に暮せばかたくなにこころ堅めて十津川の武士』 禰子

十津川や野迫川の道を通って、いつも
「なぜ、人はこんなに崩れやすい土地にすんでいるのか」と思う。
十津川の大水害は明治22年(1889年)8月。
土砂崩れ・天然ダム・死者168人(戸籍にない人を含めると200人以上)・・・。
そして、十津川村民2489人が北海道新十津川へ移住・開墾の歴史をひらく。
近隣の村々も罹災した。移住もした
(ここんとこの数字、失念したので後日調べます)。
もちろん、死者168人というのは、当時の村にはインパクトがあったのだと思う。
それでも、十津川村の移住者2489人というのは、際立って多すぎる(ような気がする)。
行政も、救援活動の一環として、新天地をいろいろと模索し、
移住キャンペーンを行ったようだ。
それにしても、である。

十津川には、近隣の村とは出自が違う、との自負がある。
先祖が八咫烏(やたがらす)←「村」の先祖が「八咫烏」とはこれいかに!?
代々任免地(税金を払わなくてよかった)であった。←税金が取れるような肥沃な土地でなかったとの説あり。
文久3年(1863年)天誅組。
etc...
この国の中央(天皇あたりを想定しているらしい)と強く結ばれている、
ことを意識しているようだ。

十津川郷士は、なぜ陸の孤島とよばれるほど深い山の奥で、
いつも政(まつりごと)のことを想起していられたのだろうか。
十津川の男たるもの・・・という自負はいまだ引き継がれ、
今も剣道が盛んな土地だ。
初夏の旅の際立ち寄った喫茶店のマスターも、
OBとして剣道をおしえているらしく、
昨年の全国大会で水戸勢を破ったと誇らしげに語ってくれた。
(「水戸」に勝った、というのもかなりうれしかったらしい。
そして、「奈良」ではなく「十津川」、「茨城」ではなく「水戸」である)

「思い込んだら命がけ(つまりしつこい)」というのと、
普段考えている(と禰子的には思っている)「武士の潔さ」というのは、
違うようでいて、案外近そうだ、と
十津川を想ううちに考えるようになった。
そのあたりは、追々に・・・。





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【2006/12/02 06:49】 | ディープ奈良 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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