「それは<詩>であるべきか」 短歌人2013.5月号 スピーチタイム〈3〉
短歌人の「スピーチタイム」に今年書かせてもらっている
「それは○○か」シリーズ?
2回目「それは芸術か」のあと勢い込んでアップです。

それでは第3回をば。

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「それは<詩>であるべきか」

          勺 禰子(しゃく・ねこ)
          「短歌人」2013年5月号 スピーチタイム
     
3月号より続く)

日本の短詩型について
「型を知るだけで詩の本質を解さず、
本当の詩魂をもたない、つまり芸術家ではない
俳人や歌人の名人達人諸先生がいるばかり」と憂いた安吾。

「短歌は仲良しクラブの日記の垂れ流し。
脚本は放送されるかどうかが全て。それがプロ。」という
脚本家志望(現在頓挫中)の女社長。

プロとは報酬を発生させることなのかどうかは今日は話題にしないが、
反論できるだけの材料をいまだ持ち合わせない私にも、
それは詠む側の問題であり、
短歌という韻律自体に罪はないのではないかとも思える。

ところで、「詩」とは一体なんなのだろう。
古代日本でそれは、漢詩だった。
近代になりそれは「ポエム」、ギリシャ語のポイエーシス、
技術(テクネー)を使った制作を意味するところの芸術だった。
漢詩を含む詩が技術的な制作物として出発したと仮定して、
短歌は声や音そのものを、呪術的、魂呼び的にしらしめよう
としたところから出発したのかもしれず、
その意味では技術を超越し、洗練し尽くし、
私を消し去った高みにあるはずの、
音自体をあらゆるものに刻みつける
儀式のようなものだったのかもしれず…。

枕詞を駆使しながら徐々に徐々にその世界にトランスさせていく
倭歌(やまとうた)であった短歌は、それが形骸化したときに、
他の詩型より「日記の垂れ流し的」になりやすいのではないか…。

そもそも「垂れ流しの質」が問われるべきなのであって、
「質のいい日記」や「質のいい垂れ流し」であれば、
それこそ短歌の身上ではないか。

いや大体、大量の日記の垂れ流しの中にこそ、人間の真実は眠るのだ。
そういう意味では短歌は「詩」である必要はないんだっ。

などと誇大妄想にうなされながら、だからこそ、
音のもつ力を裏切らないためにこそ、垂れ流すべきではないと、
なんだかわかったような気分になってきた。

7月号へ)
【2013/09/06 11:46】 | 短歌人誌 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
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コメント
ただただ私生活垂れ流しで詩を書いていても、どこかで異化作用できる人はその垂れ流しが自ずから詩となるものらしいです。垂れ流しが<日常>になるか<非日常>になるか、これが才能というものでしょうね。自己表現が自己満足で終わるかどうかは、我を忘れるほどすごい対象に出会うかどうかだ、と谷川俊太郎さんがエッセイで書いておられましたが、なるほどそういうものでょうね。し
【2013/09/09 19:14】 URL | ねこちゃん #-[ 編集] | page top↑
■ねこちゃん??さん もしくは し??さん(お名前がどれかよくわかりませんでした)

コメントありがとうございます。
私は「ただただ私生活垂れ流し」が「非日常」につながるのかわかりませんし「我をわすれるほどすごい対称」がその契機になるのかもわからないです(「ほど」ということは忘れたわけではないのですよね)。
「才能」とやらいうものが本当に必要なのかさえ保留にした場所にあるごく些細なものの中に「詩」と呼べるものがあるのなら(まあ、いわゆる「詩」自体に疑問符を置いているのが今回の話ですけれど…)、それを探したいという気持ちの方が強いです。そもそも谷川俊太郎に傾倒したことがない(できない)ので、せっかくのお言葉がうまく理解できずすみません。「詩」というものが何なのかは、これからも考えていきます。
【2013/09/10 08:30】 URL | 禰子 #xNtCea2Y[ 編集] | page top↑
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