「それは並列するのか」 短歌人2013.7月号 スピーチタイム〈4〉
短歌人の「スピーチタイム」に今年書かせてもらっている
「それは○○か」シリーズ?
3月からほったらかしておったのに、
なぜにこのタイミングで一挙アップかといえば
最終回を書きあぐねて今までの分を読み返していたから…。

当初は6回分筋書きがあって、
全部一気に書いてしまう勢いだったのですが、
書いているうちに曲がってきて…
戻れるのか、戻れないのか、まあ
大体そんな感じですよね、生まれてからずっと。

それでは第4回をば。

それにしても2か月おきやから忘れてると思って、
「興味深い」を連発しております(笑)。
普段なら極力同じ言葉は使わないのですが…。

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「それは並列するのか」

          勺 禰子(しゃく・ねこ)
          「短歌人」2013年7月号 スピーチタイム
     
5月号より)

女社長の二年前の暴言がきっかけとなり、SNの誇大妄想は膨らむ。

安吾の言う「詩魂(詩情)を持たない、型を知るだけの名人達人」にしても、
「名人達人」が芸術活動を阻む困った人々の代名詞に使われ、
そこに「型よりも詩情が大切に決まっているじゃないか」
という詩情至上主義が感じられる。とにかくまず詩情があり、
その依代(よりしろ)として短歌や詩が並列に存在している
という考えは、本当に正しいんだろうか。

短歌の最重要条件は「詩情」で、
それは「日記の垂れ流し」と相反するものなのか。

高村光太郎は「詩について語らず」で、興味深い告白をしている。
元来自分が詩を書くのは実にやむを得ない心的衝動で、
それは明治以来の詩の通念というものを殆ど踏みにじり、
詩の持つ特別な気圧層を無視している。
それは本来「音楽」にするべきものかもしれないが
自分はその技術を持ちえず、内部に充ちてくる
或る不可言の鬱積物を言語造型によって放電しているのだと言う。

光太郎は近代的彫刻家を目指す中で、
自分の彫刻が「物語り過ぎる」ことに悩んでいた。
言語(思想)を補足しないと理解してもらえないような彫刻は、
それ自体が一種の病だと考え(確かにそうだ)、
「この愚劣な彫刻の病気に気づいた私は、
その頃ついに短歌を書く事によって自分の彫刻を護ろうと思うに至った」。

その行為はちょっとずるい気もするが、これこそ
「(たぶん質のいい)日記の垂れ流し」であり、詩情の産みの母ではないか。
彼が彫刻を護るために避難する道具を、
短歌から詩に変えてゆく経緯を私は知らないが、
やむを得ぬ心的衝動を「音」で表したかった彫刻家・高村光太郎が、
短歌に過剰な意味を持たせることもまた病気だと思い、
最終的に近代詩にその任務を背負わせていたのなら、
彼にとって短歌は、
言語的ではなく不可言なものだったのかもしれない。

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【2013/09/06 12:41】 | 短歌人誌 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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