「それは不感症を克服したのか」 短歌人2013.9月号 スピーチタイム〈5〉
短歌人の「スピーチタイム」に今年書かせてもらっている
「それは○○か」シリーズ?
やっと現在分まで追いつきました。
そして追いついてないのは私のあたま…

さて、どうなりますやら。
そして今回改めて気づいたのは、
「しちめんどくさい文体やな、シャク」
へえ、すんまへん。

第5回です。

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「それは不感症を克服したのか」

          勺 禰子(しゃく・ねこ)
          「短歌人」2013年9月号 スピーチタイム
     
7月号より)

「彫刻が物語りすぎる」ことを避けるために短歌を始めた高村光太郎。
もはや女社長の「たれ流し論」論破から遠く着地点を見失いつつあるSNだが、
短歌はなぜ物語りすぎる彫刻の救済となり得ず、詩はなり得たのか。
もう少しあがきたい。

高村とほぼ同世代の釈迢空(折口信夫)は、昭和二十四年に
日夏耿之介、神西清、三好達治との対談「日本詩歌の諸問題」
(『折口信夫対話集』安藤礼二編 講談社文芸文庫 二〇一三)で、
詩について興味深い見解を披露している。

たとえば「最近の詩の押韻」について釈(この座談会は釈名義で出席)は、

押韻に対して、切実な実感を持つ為には、ある時代の間、
押韻の不感症を見送る気でじっと堪えていねばならぬのです。
(略)数時代おしとおす忍耐力が必要で(略)
それを感じるようになるまで為通し(略)日本詩の事実とするのも、
確かに意味のあることです
」と述べている。

新たなプレイを静かに受容することで感度を上げてきたこの国の、
まっとうな感じ方、のようにも思えて妙に納得する。
釈はさらに外国語と古語について、

「日常使っている言葉ではなくて、現実世界には凡そ使わないでいて、
しかも生活にぴったり効果のある言葉」として同義
なのだとし、

あの古語の冷酷な表現力を考えるとたまりません」とうっとりする。

また「沖縄の巫女の古詞を奏する様を見ていると、
考えずに言葉がすらすら出て来る。(略)私の古語の詩は、
あの巫女がしゃべっているのと同じ
」とも。

要は相当な変質者なのであるが、なんとなくわかる(気がする)。
が、次の言葉でつまづいた。

歌というものは形の薄いものですから、歌を作っているものは生活が薄く、
表わす生活も薄いのですが、それを押し通すまでは(皆は)辛抱が出来ませんね

と言う。

千年の不感症を耐え抜き 辿り着いた境地は<薄い>のですか。釈先生。
【2013/09/06 12:57】 | 短歌人誌 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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