生駒あるくみるきく【8】 新道の子として
というわけで、続けてアップいたします。
2013年4月掲載分です。

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 生駒あるくみるきく【8】 新道の子として    勺 禰子
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たか子さん4歳、母のみつ子さんと(昭和3年12月1日)

■観光生駒
「お花見の頃になるとね、駅前広場にテントを張って、無料でコーヒーを振る舞ってましたんよ」
生まれて一度も生駒市本町を離れたことがないという、茶道師範の芳野たか子さん(87)は、昭和初期の賑やかだった生駒駅界隈の、今や少なくなってしまった生き証人の一人だ。戦前、もちろん高架になる前の生駒駅を降りたった参詣者やお茶屋遊びに来た人たちは、まず宝山寺へ続く新参道筋の入口にそびえ立つ大鳥居と三階建の旅館群を目にする。そこへ各料亭から当番で来た女性たちがコーヒーを振る舞って、日常とは違う空間が演出される。遮るもののない空を見上げると、間近に生駒山と、宝山寺の般若窟がせりだしている。「花見小路」と呼ばれた桜並木はもとより、参道には桜と紅葉が交互に植えられ、春には桜のトンネルを楽しめたという。
鶴橋から快速急行で15分、今や大阪のベッドタウンの顔しか見せない、しかも雑然とした感の否めない生駒駅からは想像もつかない光景だ。

■新道の子
たか子さんの父・熊蔵さんも茶道によく通じ、宮内省で勤めていたころは女官達に茶の手ほどきをしたという。商いをしていた船場の実家が傾いたのを機に関西に戻り、そのころ目を見張るような速さで発展していた新道で普茶料理の店を始めた。
たか子さんが小学生のころ、学校帰りによく塀の節穴から覗いて見とれていたダンスホール(昭和5年に出来た生駒舞踏場)には、百人ほどのダンサーがいた。また、今も三階建の建物が残る「二鶴」という旅館にはビリヤード場があり、和服に青い上っ張りを着た店の女性が声をあげてゲームをしていたという。
「小学校では『新道の子』って言われてね、『みんなはあんなええ服着んでも、立派に農業をしてたらいい』と先生が農家の子らに言わはって、今で言うたらいじめやわね。私は父が年いってからできた一人娘やったし、体が弱かったから大阪から牛乳取り寄せてもらって毎日飲んだり、大事に育てられたんよ。だから特別な場所の子のように言われても、守ってくれる人がいたら、いじめなんか平気よね」
そんなたか子さんも、奈良の女学校に通う頃にはこの町の出身ということがうとましく、生駒駅で降りるのが恥かしかったと言う。「制服も髪の毛も、わざとオシャレにせずにモッサリしてね。私のこと田舎から来てると思ってた子もいたわね」
夏になると、参道筋界隈では夕涼みの義太夫の会が催され、大人たちが代わる代わる浄瑠璃を語っていたという。近所の人たちが普段の生活の中で繰り広げる、農村とは確かに違う「新道の日常」の中で、親しみや憧れ、ときには反発やうとましさも感じながら、それでも懐かしい記憶として、たか子さんの思い出は形成されていったことだろう。

■新道の機微
新参道筋にどれくらいの置屋(おきや)があったのか聞いてみると、たか子さんの口から魔法のようにすらすらと店の名が出てきた。花街では、客が来ると置屋に所属する芸妓は検番を通じて旅館に派遣される。
「置屋は席(せき)と言いましてん。明治席、栄席、勝美席、丸太席、松田席、勝家席、千歳席、菊利席、高砂席、川岸席、山朝席、永楽席、延糸席…」。同じく旅館の名もすらすらと出てくる。「そうそう、生駒三美人いうのもありましたで。山富の娘さん、うろこの娘さん、楽々のおかみさんいうたらえらいべっぴんさんやってね」
後年、川柳界の最大勢力「番傘川柳」の流れを汲む「生駒番傘川柳会」の会長をされていたご主人・正夫さん(雅号村雨・故人)の影響で川柳をたしなむたか子さんの句のなかに、こんな句がある。

 裏の裏見抜く女将の堅い口

「そら、こういう町で育ったから普通よりちょっとオマセやったやろね」というたか子さんだからこそ、さらっと詠める句かもしれない。

■花街とみそぎ橋
「むかしここに禊橋(みそぎばし)っていう橋が架かってたの知ってはる? 行場がいっぱいあったから、そんな名前がついたのかしらん」
ケーブル線に沿って流れてきた川は、参道筋が急坂になる手前を横切っているが、今では道路下の暗渠となった水路に気付く人も少ないだろう。禊橋の名は、お父さんのお店のマッチラベルにも「生駒山禊橋普茶料理」として刷られていたそうだ。
夜毎三味線の音色の響く参道筋の奥にはたくさんの滝があり、小さな行場もたくさんあった。かつてこの町に降りたった、主に都会からやって来た人々は、それぞれ目的は違いこそすれ、生きるためのエネルギーを補給しにこの地に降り立ったのではないだろうか。と同時に、その時代の「新道の日常」の中にも、今では想像するしかない、生のエネルギーが充ち溢れていたに違いない。

(しゃく・ねこ 歌人、ささぶね編集工房)奈良新聞2013年4月5日掲載
【2013/10/15 20:41】 | なら民俗通信 & 記事 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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