「それは音を連れて」 短歌人2013.11月号 スピーチタイム〈6〉
短歌人の「スピーチタイム」に今年書かせてもらっていた
「それは○○か」シリーズ?
やっと9月にアップが追いついたと思ったのもつかの間
最後がほったらかしになっとりました…そして、
結局しちめんどくさい文体のまま終わってしまいましたm(_ _)m

というわけで最終回の第6回です。
短歌とは音そのものの器のひとつで、
リズムや暗誦性という面からみても、
広範囲に共鳴を起こすのにかなり有効な器だったのでは
というようなことを言いたかったはずなのですが…いやはや。
(過去形なところが自信のなさですが)

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「それは音を連れて」

          勺 禰子(しゃく・ねこ)
          「短歌人」2013年11月号 スピーチタイム
     
9月号より)

(最終章)2011年の1月、大阪船場の老舗うどんすき店での宴席で、
「絵画や詩と違って、短歌のような日記の垂れ流しが理解される日なんて
未来永劫こないわよっ」と女社長がくだを巻くのを聞いて二年半余。
暴論に呆れつつ改めて思うのは、そのときの声が(SNにとっては)
「耳障りな音質」だったことだ。声質による嫌悪というのはままある。

織田作之助には「僕と共鳴せえへんか」という口説き文句があったと言うが
(実際言われた人はどないしたんやろ)、
男女に限らずいや人間であるか否かに限らず、
共鳴とは何がしかの振動への快不快、音への快不快である。

また折口信夫の卒業論文『言語情調論』は、
特異な発想法で言語を「音」として捉えることに執着している。
やがて言語は「無意味」に至ろうとし、
「呪文の如き念仏の如き皆、文の域を脱して」いく
というくだりは、
和歌や古文のほか、彼のもう一つのライフワーク、
民俗の世界から感受した音そのものに対する実感で、
前回示した「歌は形の薄いもの」は、
この辺の論旨と微妙に通じるのかもしれない。

折口の代表的語彙となった「まれびと」は、
境界の外からの来訪=「おとづれ(音連れ)」を指す名詞で、
良い音を連れてくるものが神なのであり、
『死者の書』の冒頭では「した した した」という音が
死者を目覚めてさせてしまったように、
音はときに肉体を離れた何かにまで届いてしまう不思議な振動だ。

絵も詩も短歌もすべての日常は垂れ流しなのであり、
ある種の垂れ流しが相手に浸透したときに共鳴が起こる。
絵が主に視覚で、
(近代)詩が主に抽象化で共鳴を呼び起こすなら、
短歌は音自体が音を運ぶ録音再生機能付き詩型として、
視覚より概念より時を超えて共鳴する可能性を持つ器のはずである。
2013年秋、やや強引な結論にスッキリしたSNは、
独立を告げて事務所を去った。
【2013/12/08 13:38】 | 短歌人誌 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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